天理時報2022年5月4日号6面
【たすかりを願う日々を送るなか – 修養科の四季】第961期 関口冴奈さん 26歳・東京都・三ツ國分教会所属4年前から、病院の作業療法士として、リハビリのサポートや施設へ入所するための業務に携わり、充実した日々を送っていました。ところが、だんだんと自分の知識や技術を高めることばかり考えるようになり、患者さんに心から寄り添えなくなりました。そして、人との接し方や関わり方、自分が何をしたいのかが次第に分からなくなってしまいました。そんな折、職員検診の乳腺エコーで影が見つかりました。不安でいっぱいでしたが、検査後すぐに母がおさづけを取り次いでくれました。その後の検査の結果は異常なし。ホッと胸を撫でおろしていたところ、母から修養科の志願を勧められました。おぢばには数回帰ったことがある程度で、基本教理は全く知りませんでしたが、この機に、人との接し方や、自分自身を見つめ直そうという気持ちが高まり、修養科を志願しました。朝礼で「おふでさき」を拝読する修養科生たちお働きを感じて慣れない修養生活に戸惑っていた1カ月目。クラスメートが急な身上で入院することになりました。突然の出来事に驚き、自分のことに精いっぱいだった私は、何もできず歯がゆい思いをしました。その後、仲間と共に本部神殿でクラスメートのたすかりを願うようになりました。毎日祈り続けるなか、2カ月目になったころ、「身上」という教語の意味がだんだんと理解できるようになり、私自身の身上も、親神様からのお導きだったのではと感じるようになりました。また、修養生活に慣れてきたことで、周囲の人を気づかう心の余裕も出てきました。感話やねりあいを通じて、仲間の悩みを知り、私にできることはないかと考えるようになりました。しかし一方で、別席運び中だったため、身上の仲間におさづけを取り次ぐことができず、無力感を味わうことも少なくありませんでした。そんななか、あるとき教養掛の先生に相談しました。すると先生は、おつとめは人のたすかりを真剣に願って勤めることが大切、と教えてくださいました。思い返すと、当時の私のおつとめは、ただ手を振っているような状態でした。それからは、おつとめを勤める際の姿勢を改め、本部朝づとめで真剣にクラスメートのたすかりを願うようになりました。そして、授業後の日参も欠かしませんでした。こうした生活を送るなか、3カ月目のある日、入院していたクラスメートが元気に戻ってくることができたのです。不思議なご守護に驚き、親神様のお働きを身に染みて感じました。その後、クラスメートと共に、無事に修了することができました。修養生活を通じて、相手の心に寄り添い、人のたすかりを願うことの大切さを学びました。これからも、この心を忘れずに日々を送ろうとの決意を胸に、帰途に就きました。◇先日、身上を抱える母に、おさづけを取り次がせていただきました。現在、再び作業療法士として働いています。患者さんの心に寄り添う日々に、以前とは異なる喜びを実感しています。, 【古人の呼びかけ – 成人へのビジョン2】可児義孝イラスト・かにたづこ松尾芭蕉が好きです。といっても俳句ではない、彼の俳論が好きなのです。のちに「俳聖」と呼ばれる彼は、当時の俳壇から独り離れ、新しい道へと進みます。そこは既存の尺度では測れない新たな領域。その価値を誰も保証してくれない。それでも彼は歩み続けました。自信と情熱を宿す者だけが、新境地を切り開くのでしょう。その芭蕉に次の言葉があります。「俳諧ニ古人ナシタダ後世ノ人ヲ恐ル」――現在における俳句の到達点は、いま自分が立っている此処だという自負がある。先人の句は手本ではあるが、新たな価値を創出しない。しかし、未来の人間は別だ。いまの自分では持ち得ない新奇な視点や感性を発揮する人間が、いつ現れるとも限らない――。ここには自身の句に対する絶対の自信と、“俳句の未来”への謙虚さが同居しています。芭蕉が「後世ノ人」を恐れたのは、俳句の可能性を誰よりも信じていたからです。自分の代で俳句が完成するはずはなく、尽きることない可能性がその先に広がっている。それは恐れでもあり、同時に、未来に託されているということです。翻って、信仰の世界はどうでしょう。代を重ねて信仰心は薄まったのか。それとも、新たな精神が生き生きと躍動しているのか。信仰にとって、そのルーツが大切であることは自明です。私たちの信仰をたどれば、最終的にをや(親神様・教祖)へと回帰する。もし、その回路を断てば、コンセントから電源プラグが抜けた状態のようにエネルギーは流れません。とはいえ、その作動媒体は時代とともに変わります。白熱電球もLEDも、同じ電気が流れているのです。私たちは先人の目に「後世ノ人」と映るでしょう。それは止めどなく生成変化する社会の先端で、現代に呼吸する信仰者です。そこでは日々新たな感性や価値観が生まれています。一方、私たちの信仰が依拠する教祖のひながたや原典は不変です。僕は思う。この変化と不変の往来の中に、いまだ見えぬ信仰の姿が芽を吹く。「後世ノ人」たる私たちの内に“信仰の未来”が宿っているのではないか、と。芭蕉はこうも言っています。「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」その呼びかけに応答するのは、令和を生きる私たちなのです。