天理時報2022年2月23日号1面
おやのぬくみ教祖ゆかりのものところきりなしふしんの嚆矢つとめ場所立教から約25年、50年のひながたの中間に当たる文久、元治のころ、教祖にたすけを願い出る人々が増え始め、お屋敷の建物の手狭さが目立つようになった。当時、母屋はすでになく、古い粗末な8畳と6畳の二間が教祖のお住まいであった。目標として御幣が祀ってあった8畳の間は、信者が寄り集まる場所ともなっていたが、毎月26日には参拝者が室内に入りきれず、庭まで溢れるありさまであった。詣り所の普請を望む声が上がるなか、元治元年月26日、のちの本席・飯降伊蔵が、妻おさとの産後の煩いをおたすけいただいたことへのお礼に、お社の献納を願い出た。「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ」「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家ではない」「つぎ足しは心次第」このとき居合わせた人々が、教祖のお言葉をもとに相談を重ねた末、3間半に6間の建物を建てる心を定め、それぞれ費用や瓦、畳などを引き受けることにした。さらに翌月26日、特に熱心な人々によって金5両が寄付金として持ち寄られ、大工であった飯降伊蔵の采配のもと普請開始。お屋敷には連日、勇ましい鑿や槌の音が響いた。立教の元一日に縁ある10026日に棟上げが行われた翌日に起こった大和神社の一件によって、日の浅い信者の中には信仰をやめる者もあり、出来かかっていた講社もぱったり止まてしまった。普請は暗礁に乗り上げたように思われたが、伊蔵夫妻の真実の伏せ込みによって内造りは着々と進められ、やがて、つとめ場所は完成を見る。建物は当時、6畳三間と8畳二間のほか、北西には上段の間と、親神を祀る神床が設けられた。教祖は、上段の間の西寄りに置かれた壇で、終日、東を向いて端座され、寄り来る人々に諄々と思召を伝えられた。つとめ場所は、明治2年の教会本部開筵式に伴い、かんろだいのぢばを囲んでおつとめができるよう、南側に増築が行われている。その後、北礼拝場の建築に当たり、仮神殿ができる明治44年まで、本教最初の神殿として用いられた。心の成人を図る機会として道の伸展とともに続いてきた、きりなしふしんの嚆矢となる建物である。先人の記録によれば、教祖は当時、上段の間(左奥)の西3畳ほどで起居されていた。日中も姿勢を崩されず、手を膝に置いたままであられたという