天理時報2021年9月19日号4面
特別企画信心への扉おやさまに導かれた女性目に見えん徳いただきとうございます文・伊橋幸江天理教校本科研究課程講師山田こいそ「南半国道弘め」とのお言葉を生涯の指針として、夫・伊八郎と共に敷島の礎を築いたこいそ。「教祖の御苦労を忘れたらあかんねで。お道の御用は、塩ねぶってでも頑張りや」と、口癖のように語り、皆を励まして通ったという教祖の「ひながた」というのは、神様のお言葉に、次のようにあります。「難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ!がたの道がある」(おさしづ・明治22年11月7日刻限御話)この「おさしづ」は、『稿本天理教教祖伝』の「第八章親心」をしめくくるお言葉です。「ひながた」は、「通らなければならない」というよりも、わたしたちが「通りやすいように」と心を配り、じっさいに通って示してくださった「親心」そのままの「ひながた」であるといわれるのです。この「明るく暖かく涯知らぬたすけ一条の親心」にふれた道の先人は、どのような中も強い信念をもって歩まれました。形のある物は山田こいそ(嘉永4〈1851〉年~昭和3〈1928〉年、旧姓・山中、のちにいゑと改名)の信心は、文久4(1865)年に、母そのが命のないところをたすけられたことに始まります。父は山中忠七。こいそは14歳でした。大豆越村の山中家は、子守唄にも歌われた裕福な家です。忠七は毎日おやしきへ、お米を一升ずつ袋にいれて運ばれました。教祖とともに、どん底の道中にあったこかん様は、お喜びになったということです。こいそは、5男4女の次女として生まれましたが、姉妹は夭折し、人娘として大事に育てられました。22歳で従兄と結婚しますが、二人の子どもをのこして離縁されるのです。婚家も裕福な家でした。けれども結婚生活は、しあわせなものではありませんでした。明治1年、2歳の正月から、13年の暮れまで丸3年を、教祖のお膝元で過ごされます。御髪をあげたり、お着物を縫ったりと、身のまわりの御用をつとめ、教祖は「こいそはん」と呼んでくださいました。教祖のお住まい、お召しもの、お食事は、たいへん質素なものでした。教祖は、あるとき、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と、おたずねになりました。こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」と、おこたえになっています。しあわせは、家柄や財産といった形あるものよりも、目に見えない徳をいただくところにある。世界一れつをたすけるため、貧に落ち切ってお通りくださる親心を、身にしみて感じておられたとおもうのです。「こいそはん、神様がカボチャの御守護くださったからカボチャの御飯炊いてや」とおっしゃる教祖のご飯は、カボチャばかりで米粒は数えるほどしかなかったという話が伝えられています。ここが、親里やで教祖のお膝元で、いつまでもお仕えさせていただきたいと決心されていた中に、3年に3度、山田伊八郎から人を入れて、こいそを嫁に、というお願いがありました。3度目にお伺いされると、教祖は、「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す」というお言葉をもって、お許しになるのです。明治14年、のお言葉をいただいて、こいそは、倉橋村出屋鋪(現在の桜井市大字倉橋)の山田伊八郎と結婚します。伊八郎は、それを機に、生涯の信心を心に定め、夫婦でおたすけにはげみました。明治15年、教祖は、出産のちかいこいそに、「今度はためしやから」と、をびやの試しをなさいました。そして「ここがほんとの親里やで」と、お産の後は、里の両親のもとへは寄らず、教祖のもとへすぐに帰ってくるようにといわれました。往時の風景を留めている桜井市倉橋地域。こいそは明治14年に山田家の人となってのち、伊八郎と共に近隣に教えを伝えて回った。同年の暮れに、出屋鋪村の親戚など8戸をもって講社を結成し、教祖から「心勇組」の講名を頂いた