天理時報2021年9月19日号5面
こいそは、家の人がいない間に産気づき、じぶんの前掛けを畳の上に敷いて、かるがると女の子を安産します。そして、家人の帰宅までに、じぶんで子どもにお湯をつかわしました。この不思議なご守護に、家人も隣人も、みながびっくりしたということです。そして、お産から三日目には、雨上がりの道を高下駄を履いて、赤児は伊八郎が抱き、倉橋村から1.4㌔を歩いておやしきへ帰りました。「もう、こいそはん来る時分やなあ」とお待ちくだされていた教祖は、たいへん喜ばれ、赤児をお抱きになり、いくゑと名づけてくださるのです。当時、お産は穢れであり、さまざまな禁忌(タブー)がありました。その中にあって、常識よりも、親なる神様のお言葉を信じきって通られたのです。人をわるく言わんよう伊八郎は、身上や事情に出合うたび、教祖から親しくお話を聴かせていただき、その場で書きとりました。それは、教祖がこいそにお聞かせくださったお話でもあります。その克明な記録は、いま、『根のある花・山田伊八郎先人の遺した教話(3)』(道友社新書)によって読ませていただくことができます。そこでは、親神様が元のやしきにおいて人間と世界を創められた、元初りのお話ばかり語られています。そして、心を澄まして、きれいな心になるということを強くさとされています。明治17年4月9日(旧3月14日)の項をとりあげます。こいその右足が痛むので伊八郎がおやしきへ帰ると、教祖は、すぐにお話を聴かせてくださいました。お話には、「人を腹立ささず。人を腹立させば、人また我を腹立さし。人をうらみな。人をうらみたら、人また我を、うらみたり。人に物を買うときは、代価をねぎりな。また人に物を売るときには、かけね、ゆい10人に、そんをかけたら、また我に、そんをかけるべし。人の事(わるぐち)を、ゆわんようにせよ」とあります。そして当時、警察の干渉がきびしいので、教祖を留置する役人の足が立たぬように、おやしきの門の内へも入れぬようにされたらよいのにと申したところ、その後、足痛になる。これを思案せよ、と添え書きがあります。一れつ人間は、みな神の子、お互いは兄弟姉妹である。これをよく思案して、人をわるく言わんよう、といわれるのです。教祖の「先になると、このやしきで暮らすようになるのやで」というお言葉どおり、明治44年からは、伊八郎の本部員登用にともない、懐かしいおやしきで懸命につとめました。「教祖から南半国の理を授けられたのやから、わしは七度生れかわっても、この理を生かして見せる。でないと教祖に申しわけない。尊い理をいただいたとは言えん。三人前の働きではまだ足らん、十人前の働きするのや」と語り、「おふでさき」を、老眼鏡をかけて読まれるのがつねであったといわれます。どのような中も、教祖のお心をもとめ、心を澄まして通りきられた姿勢をうかがうことができます。明治12年正月に、教祖から拝戴した十二菊の御紋。教祖が「おまえの心の向いた方に頂いてもらい」と仰せになって、孫のたまへ様に御紋をお渡しになったところ、たまへ様は「神様がやれとおっしゃるお方にあげます」と言って、こいその手に授けられたと伝わっている明治14年に赤衣とともに頂いた、教祖お口づけの盃