天理時報2022年10月26日号6面
【不可能を可能にするDNA – 日本史コンシェルジュ】嘉永6(1853)年6月3日、日本を揺るがす大事件が発生! ペリー来航です。それはまるで城が海の上を走っているよう。巨大な船は蒸気の力で動くうえに、大砲を備えていました。黒船を見た人は、みな恐怖に震えたことでしょう。しかし当時の日本人は、驚きや恐怖より好奇心が勝っていました。黒船をひと目見ようと、港は黒山の人だかり。その見物人らを相手に商売をする者や、乗組員に物々交換を申し出る者もいたそうです。さらに、こんな人も!「同じ人間が造ったのだから、日本人も黒船を造れるはず」そう考えたのは、薩摩・佐賀・宇和島(現在の愛媛県宇和島市)のお殿様たち。実際この三藩は、ペリー来航から6年の間に、それぞれ国産の蒸気船建造に成功するという離れ業をやってのけるのですが、雄藩である薩摩と佐賀に対し、宇和島藩はわずか十万石。予算もなければ設備もありません。そんな宇和島藩が白羽の矢を立てたのは、西洋医学を修め、オランダ語に堪能な村田蔵六でした。蔵六はオランダ語の書物の翻訳と船体の建造を担当。彼は、のちに大村益次郎と名乗り、明治陸軍の礎を築くことになりますが、この時は開業医だったのですから、無茶ぶりもいいところです。そして、無茶ぶりをされた人物がもう一人。このプロジェクトの鍵を握る蒸気機関の製造を、提灯張りの職人・嘉蔵に託したのです。嘉蔵は蒸気船の研究のため長崎へ留学しました。出発に先立ち、士分に取り立てられたものの、同行した武士が町人扱いするので、長崎滞在は嘉蔵にとって屈辱的でつらいものでした。荷物持ちにされ、時間に遅れると食事を与えられないなどの不遇に甘んじました。しかし嘉蔵はめげなかったのです。きっとこのプロジェクトに、彼なりの意味を見いだしていたのでしょう。やがて嘉蔵に味方する者が現れました。心強い支援者のおかげで成果を得た嘉蔵は、宇和島へ帰り、蒸気機関造りに着手。失敗と研究・改良を繰り返しながら、ついに安政6(1859)年2月、宇和島藩において純国産の蒸気船が完成したのです。かつて種子島に火縄銃が伝わったとき、二丁買い取っただけで、それと同じものをすぐに作りあげた日本人。約300年後、今度は語学に長けた医師と手先の器用な職人がタッグを組んで、蒸気船を建造しました。この不可能を可能にするDNAが、あなたにも受け継がれているのです。白駒妃登美, 【親神様はいつも私たちのそばに – 修養科の四季】第970期 大野菜穂さん 25歳・天理市・名野川分教会所属小学4年生まで、家族で上級の教会に住み込んでいました。およそ30人の大所帯で共同生活を送るなか、苦しいことも喜びに変えて通る両親の姿を見てきました。大学卒業後、天理市内に住んでいたものの、仕事に追われる中で信仰から遠ざかってしまい、本部神殿へ足を運ぶ機会は月1回ほどに。また、教会行事も何かと言い訳をして断ることが少なくありませんでした。その後、結婚を機に3年間勤めた仕事を退職。「これまでの通り方を改め、自身の信仰を見つめ直す良い機会になるのでは」と思い、修養科を志願しました。同じ身上に神意悟り長い間お道の教えにふれる機会が減っていたこともあって、授業で親神様の不思議なお働きの話を聞いても「本当にそんなことがあるのかな」と、正直なところ疑いの心がありました。そんななか、修養生活が始まって2週間が経ったころ。同じ詰所の修養科生Aさんが左足の痛みを訴え、私がおさづけを取り次がせていただくことに。数年ぶりのおさづけ取り次ぎとあって緊張しましたが、Aさんにたすかってもらいたい一心で取り次がせていただきました。すると翌朝、Aさんの左足の痛みがすっきり治まっていたのです。鮮やかなご守護に大変驚きましたが、そのときは、偶然なのかもと思っていました。ところが、今度は私の左足がAさんと同じように痛み始めたのです。痛み止めの薬を飲もうかと迷いましたが、この日は薬に頼らないことにして、朝づとめへ向かいました。すると、おつとめが終わると同時に痛みが治まったのです。同じ詰所の修養科生Bさんに、その出来事を話す機会がありました。すると、Bさんもその日、私とAさんと同じように左足の痛みを感じたというのです。Bさんは詰所の宿泊者におさづけを取り次いだところ、自らの左足の痛みが和らいだと教えてくれました。3人の修養科生に同じように身上をお見せくださり、いずれも鮮やかにご守護を下さった。この一連の不思議な出来事に思いを致したとき、親神様のお働きを信じきれずにいた私に、「親神様はいつもそばにおられる」と、教祖が教えてくださったように思いました。こうした体験を通じて信仰への疑いの心が晴れた私は、これからは親神様に素直に凭れて通ろうという心が次第に固まっていきました。それ以後は、身上を抱える人に自ら進んでおさづけを取り次がせていただくようになりました。修了を前に、まだまだようぼくとして未熟ではありますが、これからは困っている人に積極的に声をかけ、“たすけの手”を差し伸べられるような、実動するようぼくへと成人させていただこうと心に誓いました。◇修養科を了えた私は、実家へ戻りました。修養科で学んだことを胸に、身上を抱える祖母に早速おさづけを取り次がせていただきました。これからも親神様のお働きに感謝し、おたすけ心を持って、日々の生活を送っていきたいと思います。