第1部を終えて(上) 失われた時 – ふたり
11月17日号をもって、全40回の連載を終えた『ふたり――星の降る夜は』(第1部)。読者から好評の声を頂き、続編となる第2部の連載を来年1月にスタートする。ここでは第2部開始を前に、著者・片山恭一氏によるスピンオフの寄稿を3回にわたって掲載する。まず、上下2回に分けて作品に込めた思いを、そして、第2部の大まかな内容や構成について綴ってもらう。
子どものころ、カンはよく物にぶつかっています。迷子にばかりなっていた、というくだりもあります。これは彼が生きている世界に、方角や距離といった秩序がないことを象徴しています。それから時計の文字盤が読めないというエピソードも紹介されます。つまり因果関係が理解できないということですね。こうした特質は、カンが言葉を喋らないことと深くかかわっています。
アマゾンの少数民族・ピダハンの言語には数字がなく、過去や未来の時制もほとんど見られないそうです。人間の思考は話している言語によって構成されます。考えることは内なる声で話すことと言ってもいいでしょう。その言語に数がなく、時制がないとしたら、世界はどんなふうに立ち現れてくるのだろう? ぼくたちの世界では、物事は順を追って一歩ずつ進むように逐次的に起こり、それは因果関係として説明されます。ピダハンの世界に、果たして逐次的認識や因果関係は存在するのでしょうか?
カンは言葉を話しません。かわりに彼の内なる声として、ピノという一匹の犬がいつもそばにいます。カンの内なる声は、ピノの「ことば」によって代弁されます。その「ことば」が声ではなく、映像やイメージのようなものだとしたら?
あるときカンの心の目に一つの光景が浮かぶ。その光景には未来が含まれていて、現在と未来が同時に体験される。
するとカンには一種の予知能力があることになります。未来が見えてしまう。蓄財には有利かもしれませんが、いいことばかりではなさそうです。たとえば病気の検査精度があまりによくなると、見つからなくてもいいものが見つかって心配事も多くなります。自分の将来について子どもの時点でわかってしまうと、生きることが楽しくなくなるでしょう。見え過ぎることが人々の自由を奪い、苦しめることもあるようです。
カンの場合は、未来が見えることで義務のようなものが生まれます。この義務感に促されて行動を起こしますが、そこには落とし穴がありました。父親を救えなかったことが、彼の心に深い傷を残し、人知れぬ苦悩が生まれます。そんなカンにピノは寄り添いつづけます。
連れ合いを失った母親も、もちろん苦しんでいます。ピノがカンに寄り添うように、カンが母親に寄り添っているようにも見えます。彼らのまわりに、ツツ一家のような別の「ふたり」も配置され、それらが相互に交流することで物語は進んでいきます。
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