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“二人分の人生”をいま生きて… – わたしのクローバー


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あの日、あこがれの先輩が

私の枕元に小さなポーチが置いてある。花柄の布地を何枚か縫い合わせたそのポーチは、大好きだった先輩のお母さんから頂いたものだ。

イラスト・ふじたゆい

28年前の1月17日の夜だった。大学の同級生から電話がかかってきた。

「先輩の名前がテレビに出てる……」

あわててテレビをつけた。

その日の早朝、マグニチュード7.3の大地震が京阪神を襲い、未曽有の大災害に世の中はひっくり返っていた。テレビ画面には、死亡が確認された人の名前が繰り返し流されている。めったにない珍しい名字と、年齢と、住んでいた街の名前と。たった6文字の、なにかの暗号のように記されたカタカナは、昨日まで一緒に笑い合っていた先輩の名前だった。

当時の私は、大阪の音楽科大学院の1年生で、先輩は2年生。奈良県の自宅から通う私と、広島出身で神戸に下宿して通学していた先輩とは、専攻する楽器も、師事する教官も、通学する電車もすべて違っていたが、なぜか私のことをとても可愛がってくれた。おしゃれで華やかな学生が多いなか、お下がりで一生懸命にコーディネイトした私の服装が大好きだと、いつも言ってくれた。

バレリーナのように姿勢が良く、舞台の真ん中にすっくと立つ先輩は見栄えがして、とてもカッコよかった。先輩は三姉妹の長女、私は三姉妹の次女、育った環境が似ていたせいか、一緒にいると不思議に居心地が良かった。

誰よりも努力家だった彼女は、大学院の修了試験を目前に控え、毎朝5時に起きて楽器の練習に励んでいた。

古い木造住宅。家賃が安くてありがたいのよ、と話していたその平屋の家は、大地震の前にひとたまりもなかった。近所の人の手で瓦屋根の下から引っぱり出されたとき、先輩はもう冷たくなっていたという。

毎日を大切にできているか

大学はしばらく休校になった。教官たちは学生名簿を手に、電車の来ない線路を歩いて、連絡のつかない学生たちを捜していると友達が教えてくれた。

1週間ほど経ったころ、教授から電話があった。亡くなった先輩の代わりに引き継いでもらいたいことがあるから、明日、研究室まで来るようにと。

都会から離れた大学のキャンパスに大きな被害はなかった。指定された時間に研究室の重たいドアを開けると、疲れきった様子の教授が待っていた。

教育助手。自ら学生でありながらも、教授たちの助手として学生を指導する立場のことだ。大学院でたった一人の選ばれし立場にあったことを、先輩は誰にも話していなかった。

「君にやってもらおうと緊急の教授会で決定したから、そこにサインして」とだけ言って、教授は引き継ぎの書類を私に手渡した。書類には、任期途中ながら助手が交代する旨と、交代した日付が記されていた。1月17日と書かれたその日付を見ながら、あの日から先輩がいないんだという現実を、あらためて思い知らされた。

きっと、やりたいことが山のようにあっただろう。先輩が大学院修了後に思い描いていた夢を私は知らない。もしかしたら、楽器の勉強のために留学しようと思っていたかもしれない。どこかの楽団のオーディションを受けるつもりだったかもしれない。キラキラと輝く未来を決して疑ってはいなかっただろう。恋愛だって、結婚だって、きっと未来設計のなかにあったはずだ。

思う存分勉強して、結婚して出産して子育てして。楽しい一日も、疲れきった一日も、先輩が叶えられなかったささやかな毎日を、私は先輩の分まで精いっぱい生きている。

小さなポーチの中に、先輩が着ていたブラウスの端切れを見るたびに、私は毎日を大切にできているか振り返る。当たり前のように過ぎていく日常が、決して当たり前じゃないことを私は知っている。先輩から大役を引き継いだあの日から、私は“二人分の人生”を生きている。


濱孝(天理教信道分教会長夫人)
1972年生まれ


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