第1部を終えて(下)「ふたり」という原型 – ふたり
人間の生の原型は「ふたり」ではないか。「ふたり」という原型を、一人ひとりの「自分」という仕様で生きている。そんな気がします。もとのかたちが「ふたり」だから、ぼくたちは動物たちとは違った意味で苦しんだり、生きることの喜びを知ったりするのではないでしょうか。
とんでもなくお金を儲けてしまった人たちがいます。たとえばアマゾンを創業したジェフ・ベゾスとテスラという車を作っているイーロン・マスク、彼らは二人とも宇宙旅行をめざしているようです。グーグルは医療ベンチャーに投資しています。創業者の一人であるラリー・ペイジによると「健康、福利、長寿」をめざす会社だそうです。面白いのかなあ? ぼくなら好きな人と一緒に餃子でも食べたほうがよっぽどいいと思います。
安楽死が合法化されているスイスには、幾つもの自殺ほう助団体があります。ご承知のとおりこの国は、世界でも指折りの富豪たちが住む土地でもあります。いつかツアーで訪れたとき、レマン湖のほとりをバスで走っていたら、ガイドさんが「このあたりには、ヘップバーンのお家があるんですよ」と教えてくれました。ある州では自殺ほう助と安楽死ツーリズムの禁止を求める発議が住民投票で否決された、なんてこともありました。
お金持ちが最後に望むことの一つが安楽死ということでしょうか。たくさんお金があって、そのお金で好きなことをしていいと言われると、宇宙旅行と安楽死くらいしか思いつかない。そういう厄介なところに、人間は来ているのかもしれません。
小説というのは、名前のとおり小さなお話です。この「小さい」には卑近や卑小といった意味もあります。つまり身近で、一見つまらない題材を扱うのが小説です。誰もがやっているありきたりなこと。でも、そのなかには至高や珠玉が隠れている。それを見いだすのが小説だと思うんです。
キーワードは「ふたり」だと思います。どんなささやかなことにも「ふたり」が含まれているから、至福の体験になりうる。ロケットで宇宙へなんか行かなくても、好きな人と一緒に餃子を食べようって話です。人が生きていることのなかに「ふたり」という契機があるから、「美味しい」という感覚や、「味わう」という体験が生まれるのだと思います。この美味しいを、コンピューターは模倣することはできますが、つくり出して味わうことはできません。なぜなら0と1のアルゴリズムは「ふたり」という仕様になっていないからです。
大切な人を亡くしたカンと母親は二人でパンをつくります。焼き上がったパンを、彼らは一緒に食べるでしょう。それは亡くなったトトとカンが、あるいはトトとハハが、ともに味わう「ふたり」でもあるはずです。
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