一筋の道をどこに – 成人へのビジョン11
「コロナが治まったら」。そんなあいさつを何度交わしたことでしょう。この数年間、親しい友人との再会も、学校行事も、おぢば帰りの予定も、あれもこれも、中止や延期の憂き目に遭いました。長引くのはつらいことです。終わりや出口が見えれば、人はどんなに頑張れるでしょう。
先日、私の住む街が大雪に見舞われました。北国の宿命とはいえ、除雪の苦労には並々ならぬものがあります。大教会で青年づとめをしていたころ、毎日降り積もる雪を恨めしく思ったものです。雪はいずれやむ、春になるまでの辛抱。でも、刻一刻と高さを増していく雪面を前に、そんな悠長なことは言えません。大教会の敷地は広く、おのずとできる範囲は限られます。肝心なのは「どこから取り掛かるか」です。
「最初に門から神殿玄関まで」と指示された通り、除雪して道をつけます。その後、教職舎の玄関前を、さらに時間があれば範囲を広げていきます。最初に門から神殿玄関まで──降り積もる雪は、本当に大事なのはどこか、必要な道は何かを教えてくれたようです。
コロナは、そんな雪のシーズンよりもずっと長引いています。これはつらいことです。でも、その「長引く」中にも神意があるのかもしれません。雪が降り続くことによって初めて、大切な一筋の道が見えてくる。──信仰における「一筋の道」をどこに求めるか。長引くことで、私たちの本質を探究する姿勢、すなわち求道心を引き出してくださったように思うのです。
とはいえ、最初の一筋だけでは大勢の人々が往来できないのも事実です。ゆとりがなく窮屈でしょう。状況が許すなら、広々と道をつけたいものです。時々は、シャベルを放り出して、雪合戦を楽しむのもいいかもしれません。一筋の道をつけるから自由に遊べるのです。
はや/\とをもてでよふとをもへとも
(おふでさき二号13)
みちがのふてハでるにでられん
神様が望まれる道とはなんでしょう。それはきっと外形を意味しません。「かみのみちは、こゝろのみちといふ」(『正文遺韻抄』)。内なる針路をどう取るか。いずれ訪れる雪解けを前に、深く思案したいものです。
可児義孝