貧しさを心にかけず 夫婦でおたすけに専心 平野トラ(上) – おたすけに生きた女性
気丈な性格であったトラ。楢蔵を婿に迎えてのち、大勢の子分を抱えながら所帯を切り盛りした。子分同士、刀を持ち出すけんかを治めたときは、その度胸の良さに、誰もが恐れ入ったという
今回は、平野トラを紹介します。トラは安政元(1854)年、父・平野富蔵、母・みすの長女として誕生しました。明治13(1880)年、のちの郡山大教会初代会長・平野楢蔵と結婚。楢蔵の身上をきっかけに入信し、楢蔵と二人でおたすけに励みます。教会設立後は、寄り来る人々を導き育て、教会内を治めるうえに心を砕きました。
恩智楢を夫に迎えて
夫・楢蔵は弘化2(1845)年、大阪府八尾市恩智に生まれました。10歳のとき相次いで両親を失い、姉・しかと共に親戚の家で育てられます。博打を覚え、けんかで自信をつけ、やがて侠客の親分「恩智楢」と呼ばれるようになりました。
ある日、楢蔵は大和の竜田へ博打に出かけます。そこでトラの弟・巳之祐と出会い、二人は意気投合、兄弟分の誓いの盃をあげました。
当時、トラの父・富蔵は、奈良県郡山洞泉寺町で貸座敷「大和川楼」を営んでいましたが、明治12年、息子の巳之祐が病死したため、楢蔵にトラの夫となって平野家を継いでほしいと懇望しました。翌年8月6日、楢蔵は実家の森家をしかの夫・清次郎に任せ、平野家を継ぎました。楢蔵36歳、トラ27歳でした。
同17年、楢蔵は神経病で苦しむようになります。医薬や神仏にすがりますが、ますます悪化し、ついに動けないほどの重体に陥りました。翌年秋、病状を聞いた森清次郎としかが、天理王命の信仰を勧めに来ました。楢蔵夫婦はなかなか聞き入れませんでしたが、清次郎の熱心さに心動かされ、「なむ天理王命、なむ天理王命」と神名を唱えて祈願すると病状は快方へ。神経病の発作も日に日に治まって、独り歩きができるようになりました。
浴衣一枚でおたすけに
明治19年陰暦正月、楢蔵が賭博の最中に卒倒し、息が止まり、脈も無くなりました。森清次郎は松村栄治郎宅へ駆け込み、お願いづとめを頼みます。
人々が水をかぶっておつとめに掛かろうとすると、4時間ほど息絶えていた楢蔵が、「ウーン」と息を吹き返しました。おつとめが終わると、楢蔵は起き上がって小躍りするほどに喜び、すぐにお礼に参らせていただくと言いだしました。葬式の用意を頼んで駆けつけたトラは、一部始終を聞いて、親神様のご守護に深く感じ入りました。
翌朝、楢蔵とトラは、おぢばまで信貴山越えの7里半(約30キロ)の道を、子分に付き添われて出発しました。生死の境にいた楢蔵はひどく弱っており、戸板に乗せられて向かいましたが、大和の竜田まで来ると、戸板の上ではいたたまれず、そこから歩いて帰りました。
おぢばに着いた楢蔵は、たとえようのない感激に打たれ、涙ながらにかんろだいの前でひざまずき、心からお礼を申し上げました。
その前日、教祖が「明日はこのやしきにどんな者を連れて帰るやわからんで」と仰せられていたので、どんな偉い人が来るのかと、人々は心待ちにしていました。しかし、それが楢蔵だったので、いぶかったといいます。
楢蔵は村田長平宅に滞在し、取次の先生から教えを聞かせてもらいました。そして、多くの人を苦しめ、踏みつけにしてきた半生を振り返り、さんげしたのです。人をたすけてこそ、いんねんを切り替えていただけると教わった楢蔵は、命ある限り人だすけの御用につとめさせていただくと固く心を定めました。
楢蔵は子分たちと別れの水盃を交わし、きっぱりと侠客の世界から足を洗いました。それからは毎日にをいがけに歩きますが、悪名高い郡山の地では、楢蔵におたすけを願うどころか、近寄ろうとする人さえいません。ところが、すっかり別人になって熱心に人だすけに歩く姿に心打たれ、次第に信心する人が出てきました。
楢蔵とトラは“ほこりの家業”を続けることを申し訳なく思い、貸座敷業を廃業し、遊女たちを無条件で親元へ帰しました。生活に窮することを覚悟のうえで、トラが道一条に踏みきったのは、恩智楢をここまで一変させた親神様のお働きや、この道の信心の有り難さを心底実感し、トラの心の中でも確かな信仰心が芽生えていたからでしょう。
明治19年夏、二人は「教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ」と決心し、楢蔵は単衣1枚に浴衣1枚、トラは浴衣1枚ぎりになって、おたすけに回りました。そのころ、お屋敷へ帰らせていただくと、教祖は、次のお言葉を下さいました。
「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に」
『稿本天理教教祖伝逸話篇』189「夫婦の心」
夫婦そろっておたすけに専心すると、道は急速に広まり、毎晩50、60人がやって来るようになり、おたすけに出させてもらいたいという人も出来てきました。
あるとき、中山眞之亮・初代真柱様がお入り込みくださり、信者に教理をお仕込みくださいました。その際に「天龍講」の講名を頂き、楢蔵・トラ夫婦はもとより、人々はますます勇んでおたすけに励みました。
「夫婦揃うて、心一つに定め」
楢蔵は度々おぢばへ帰り、教理のお仕込みを願いました。ある日、桝井伊三郎に信者へのお仕込みをお願いしました。二人で郡山へ向かう道中、楢蔵は伊三郎の夕食代をどうしようかと考え、困惑します。近くの農家で便所を借りて長時間思案しますが、名案は浮かびません。わが家の前まで来たとき、ふと2階の雨戸が目に留まりました。伊三郎を奥へ案内した後、二人で静かに雨戸を下ろし、トラはそれを古道具屋へ売りに行って、ごちそうを調えたといいます。
また秋のある日、楢蔵は信者の増田甚七とおぢばへ帰る約束をしていました。袷物を着る季節なのに、楢蔵は裸になって縁側で日向ぼっこをしています。甚七が出発を促しますが、楢蔵は一向に立ちません。小一時間経つと、トラが小走りに帰ってきました。楢蔵はサッと立ち上がり、「えらい待たしました。さあ、やらして貰いまひょう」と言って出てきました。袷を着て、手にはお土産の見事な鯛を持っています。トラは質に入れた袷を出しに行きましたが、お金がないので、楢蔵が着ていた単衣を質に入れて、袷を出す相談をしていたのです。しかし、質屋もなかなか承知してくれず、時間がかかったのでした。のちに甚七は、二人がこれほどの道中を通っていたことに全く気づかなかったといいます。このことは、トラたちが貧しさを心にかけず、強い精神をもって歩んでいたことを物語っています。
明治21年7月15日、夫婦そろって「おさしづ」を伺うと、「所々に一つの芯を治めて貰いたい」と教会設立を促されました。そして、教会設立に際しては「この度、夫婦揃うて、心一つに定めて貰いたい」と求められました。同年8月23日、トラは「あしきはらひのさづけ」を拝戴し、同年12月21日、郡山分教会設立のお許しを頂きました。
ここからトラは、教会へ寄り来る人々を導き育てるとともに、教会内を治めるという重責を担っていきます。次回は、トラが教会長夫人としてどのように歩んだのかを見ていきたいと思います。
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)