やわらかな言葉 – 成人へのビジョン12
『天理時報』に文章が載ると思うと、どうも肩が凝ります。内容があり、自分らしくて、信仰的で、少しばかりエッジも効いていて。要は「刺さる言葉」を書きたい、そんな思いにとらわれます。しかし気負うほどに自然さは失われ、どこか空々しい文章になってしまいます。
「刺さる言葉」とは何でしょう?「刺さる」の語感には、鋭利な先端部で対象の表面を傷つけるイメージがあります。テレビ出演の機会を得た若手芸人が「爪痕を残したい」と口にしていました。チャンスを前に、とにかく視聴者の記憶に残るようにと意気込むのでしょうか。そんなとき、人は王道を離れ、突飛な行動に出ることが多いようです。お茶の間に「刺さろう」と必死なのです。
私の場合も、そうかもしれません。価値ある文章を書きたい。その思いが「刺さる言葉を」という気負いを生みます。
でも、ふと思うのです。おやさまのお言葉はまるで違う、と。それは、私の心に深く届くものでありながら、いわゆる「刺さる言葉」とは全く違った趣があります。
たとえば「やさしい心になりなされや」というお言葉には、奇をてらうところや、過激な表現は見当たりません。それどころか、親が子に接する日常の言葉という感じです。場面によっては、強く威厳に満ちた言葉の響きが感じられる一方で、逸話篇を紐解くと、親しみやすい、やわらかな言葉の数々と出合います。そして、そのやわらかな言葉は、当時、直接耳にした人はもとより、現代の信仰者の心にもしっかりと届いているのです。
言葉は不思議です。どうしたら人の心に響くのか。それは新規な表現への衝動や技術だけで説明しきれるものではありません。やわらかな、それでいて深く届く言葉。そこに「刺さる」という外傷はいりません。そうした言葉は、「刺さろう」という動機とは根本的に異なるところから発せられるようです。
さあ、そうなると僕は打つ手なしです。しかし、この「打つ手なし」からスタートするのも悪くないかもしれません。どうも近道はなさそうですから。
可児義孝