「おさしづ」を頼りに 慈悲深く育て導き 平野トラ(下) – おたすけに生きた女性
晩年は楢蔵と共に、おぢばの詰所へ住まいを移したトラ。初代真柱様、本席様がご在宅の日には、珍しい料理を自ら調理し、召し上がってもらうことを喜びとしたという
「育てば育つ、育てにゃ育たん」
教会の神殿普請が完成し、開筵式が終わると、役員の人々は、家業をやめて教会に住み込み、専ら教会の御用をつとめました。
教会長夫人になったトラは、寄り来る人々を育て導き、教会内を治めるうえに苦心を重ねます。その中を「おさしづ」を頼りに歩んでいきます。
明治23年3月19日「平野トラの願」では、どんな事情が起こってもじっと踏ん張り、右にかわし左にかわして、穏やかに通るよう諭されました。
同年10月21日「平野トラ身の障りに付願」では、教会は多くの人が寄り集まる所だから、日々どんなことも起こってくるが、「あほらしい」「こんなこと」と思うことがあっても、心を治めて通るよう促されました。そして、「この道むさくろしいと思う。むさくろしい中からどんな綺麗なものも出ける。(中略)育つは修理肥、植流し蒔流しでは稔りが無い。十分肥えを出ける。(中略)どんな事聞きても辛抱」
と、この道を通るうえで「むさくるしい」と思うこともあるだろうが、その中からどんな綺麗なものもできる、と教えられました。
また、育つには、修理や肥をするから育つのであり、植えただけ、種を蒔いただけでは稔りはない。十分に肥をしてこそできる。どんなことを聞いても、辛抱して育てていくようにと、教会長夫人として、人を育てる心構えをお諭しくださいました。
明治24年3月23日「平野トラ身上に付願」では、「いかなるも皆、育てば育つ、育てにゃ育たん」と、どのような人も皆、育てる丹精を重ねるから育つのであり、育てる真実がなければ育たない、とのお言葉を頂きました。
明治26年6月19日「平野トラ身上願」では、日々、遠い所から若い者が寄ってくることについて、世界の人間心からは厄介でも、たすけ一条の道からすれば、遠い(近い)は言わず、十分大切であると仰せられました。続いて、
「十のもので九つ半大切して、半分だけ出けん。十のもの半の理で九つ半まで消す。(中略)出て救けるも内々で救けるも同じ理、いんねんならどんな者もいんねん」
と、十のものを九つ半まで大切にしても、あと残り半分ができないために、九つ半まで消すことになると注意を促され、あと少しのところを大切にするよう諭されています。そして、外へ出ておたすけをするのも、内々でたすけるのも同じたすけ一条である、との心で育てるよう仰せになりました。さらに、
「年の行かん者我子より大切、そうしたなら、世界からどういう大きい事に成るやら知らん。(中略)日々という、言葉一つという、これ聞き分けてくれるよう」
と、年のいかない若い人を、わが子よりも大切という心で育てたなら、どれだけ大きいことになるか分からないといわれ、日々、言葉一つに十分心して育てるよう諭されました。
楢蔵とトラには子供がなかったのですが、参拝に来た役員や信者の子供をわが子のように可愛がり、信者らもトラを慕っていました。
トラは「おふでさき」「おさしづ」を常に傍らに置き、教理の探求にも熱心でした。
あるとき、中和支教会長の植田平一郎に、「道のもう一つ立ち切らんというのは、親の心に子の心が添わんところがあるのや。それには、おふでさきを、どこまでも十分思案させていただくようにしなはらないかん」と語り、「おふでさき」を思案して、親神様の心に添う道を示しました。
教会に住む役員夫人や青年にも深く心を用いて仕込みました。毎晩のように、親神様のご守護、八つのほこり、教祖のひながたについて一人ひとりに話をさせ、また自ら取り次ぎ、並々ならぬ愛情を注いで教え導きました。
陰になり裏に回って
教会で青年としてつとめ、楢蔵夫婦に育てられた生駒支教会の中川幾太郎が大分へ布教に出発するときのことです。幾太郎は教導職がなかったため、楢蔵は周旋(今日の教会役員に相当する立場)としての指令書を持参させようとしました。それを頂こうとした幾太郎に、トラは「お前はん、周旋の指令をなんと思うか。……指令を持たねばならぬと思うなら、布教は止めなはれ。教祖五十年の道すがらを十分仕込んであるやろ。指令なしで行ってこそ、教祖のひながたを通れるのや。神様にすがらず、指令にもたれては、心が高うなる。心が高うなっては神様のご守護がない。指令がなければ、どんな難儀な道を通るやわからんが、指令なしに働いて、実地に教祖の道すがらを通らせてもらうところに、本当のお道の結構があるのやで」と諭しました。
親神様にもたれ、ひながたの道を通ってこそ、この道の本当の結構さがあると、確信をもって、そして愛情を込めて仕込むトラの言葉が胸に響いてきます。
楢蔵が厳しく信者を仕込むときは、必ずトラがそばにいたといいます。明治30年ごろ、教勢が一時疲弊していたとき、楢蔵は部内教会の会長に対して、目から火の出るような厳しい仕込みをしました。そこへトラが出てきて、「そう貴方のように、ガミ/\と、ひとつかみするようなことは言わはらんでも……。なあ、貴方がたそうでっしゃろ」と、その場をとりなしたといいます。楢蔵が立ち去った後、教理に明るいトラは、ただいまの会長の話は、このように治め、悟らせていただくべきであると諄々と諭し、人々を励ましたと伝わっています。このようにトラは、夫の陰になり裏に回って、慈悲深く、真心をもって心の養いを与えていました。
東京布教の悲願
楢蔵が関東地方へ出張し、各地の教会や出張所で、教祖のご恩やひながたの道を説いて人々を励ましていたときのことです。楢蔵は、その話をするごとに、郡山での教祖の祀り方が粗末であることが心にかかっていました。そこで、その心境を手紙に認めました。手紙を読んだトラと役員たちは恐縮し、さっそく協議を重ね、教祖殿新築の準備に取りかかりました。経費は、役員や信者がお供えすることに決まりました。準備金が必要なため、トラは単身、東京へ赴いて3千円を借用し、その一方で、役員が大阪の材木店で用材の交渉を済ませました。こうして楢蔵が戻ってくると同時に、工事に着手できたのです。
一通の手紙から楢蔵の思いを汲み取り、教祖殿普請の準備を整え、さらに東京まで赴いて資金の調達を済ませたトラの姿に、教祖への一途な信仰がうかがえます。
トラは、教会に身を置いて人々を教え導く中にも、道の発展をいつも心に留めていました。教祖から頂いた「江戸、長崎」とのお言葉を受け、天龍講の道がいまだ付いていない東京へ布教に出たいと常々語っていました。
明治26年、東京行きについて「おさしづ」を伺いましたが、教会の内を治めつつ青年たちを育成するのに多忙で、ついに果たせませんでした。同32年11月、トラは大規模な布教を計画し、東京へ赴いて準備を整え、一度おぢばへ帰りました。秋季大祭後、再び婦人たちを連れて東京へ行くつもりでしたが、身上すぐれず取りやめになりました。楢蔵をはじめ役員や夫人たちが徹夜でお願いしましたが、同年12月15日、出直しました。
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トラは楢蔵と心を一つに合わせ、神一条に徹して歩みました。どん底の道中も、教祖のひながたを胸に強い精神で通りきり、どんな大木も大石も貫き通すと仰せいただいた楢蔵とトラの真実が、多くの人々の心を動かし、教会設立を果たしたのです。
その後は「おさしづ」を頼りに、寄り来る人々を慈悲深く育て導きました。そして、教会に住み込む人々の慈母として心を砕き、郡山の道の礎を揺るぎないものにしました。晩年まで、御教えと教祖のお言葉を心に思召になんとかお応えしようと努めながら、たすけ一条に生きた生涯を閉じたのです。
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)