特別寄稿 エピローグ 連載小説を終えて – ふたり
「ふたり」は人間らしさの源
令和2年から3年80回にわたって紡がれてきた連載小説「ふたり」が、前号(3月29日号)にて大団円を迎えた。今回、物語の最後の締めくくりとして、筆者の片山恭一氏に「ふたり」のエピローグを寄稿してもらった。
何かを食べておいしいと感じる。このおいしさは必ずしも物質に依存していません。クジラやアザラシの生肉は、ぼくたちには生臭くて食べられないでしょうが、アラスカに住むイヌイットの人たちは「おいしい」と思って食べているはずです。それは彼らのなかに、自然からの贈り物をみんなで分かち合って食べているという意識があるからでしょう。
ミシュランの三つ星が付いているような店で、豪勢なフランス料理や日本料理をいただいても、失恋した直後の孤食ではたいしておいしくないのでは? それよりも安アパートの台所、ニトリで買ってきたテーブルの上で好きな人と二人ですするカップ麺のほうがおいしいにきまっています。つまりミシュランは「ふたり」には勝てないわけです。
ぼくには「ふたり」によって生み出される感情や情動が、人間のいちばん人間らしい部分を形づくっているように思えます。そこに至上のものがある。
「美しい」にも「ふたり」の面影が
この小説では、ぼくたちが編み上げる「ふたり」のさまざまな様相を描いてみようと思いました。食べ物の話も出てきます。ハハがパン屋さんをしているのは、そういうエピソードを描きたかったからです。カンが写真に凝っていて、何げない小さな自然に目を向けるのも、「美しい」はかたちを変えた「おいしい」だからです。「おいしい」にも「美しい」にも「ふたり」の面影があります。この面影を宿して、ぼくたちは生きていると言ってもいいでしょう。
自分が本当に窮地に陥ったとき、自分で自分を支えるのはなかなか難しい。たとえば仕事の上でにっちもさっちもいかなくなったとき、自分を全面的に受け入れ肯定してくれる人、漱石の『坊っちゃん』の「清」みたいな人、そういう人が一人いれば、なんとかやっていける気がします。そんな誰かと、あるいは何かと出会うために、ぼくたちは生きているのかもしれません。
少し体験的な話をすると、先の見えない病気になって、「あと何年生きられるかな」などと思いながら、不意に見慣れた景色が美しく目に飛び込んでくることがあります。空に浮かんだ雲だったり、庭に咲いている花だったり、本当にありきたりなものです。朝食のあとで飲んだお茶がこれまでになくおいしかったとか。「末期の眼」という言葉もあるくらいですから、きっと大勢の人が似たような体験をしているのでしょう。
「死」が迫ると「美」が現れ出る
なぜ、こんなことが起こるのか?「ふたり」がふくらんでいるからだと思います。「死」に切迫されて、その人のなかで「ふたり」がふくらんでいる。そこから豊穣なものが生まれて、ぼくたちを包み込んでくれる。死に切迫されると、この世のものとは思われない美が現れ出てくる、ということを何度か書いたことがあります。ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲、マーラーの晩年のシンフォニーなどを聴いて、そんなことを思ったのです。
伝記などによると、マーラーの晩年は非常に不幸でした。娘の死、自らの重い心臓病、さらに仕事上の失意などもあったようです。ベートーヴェンも最後は南京虫に喰われるような粗末なベッドで死んだと伝えられますから、けっして幸福な死とは言えません。
しかし目に見える、実体としての好ましくない死の遙か彼方から、崇高とも言いたくなるような「美」がやって来る。こうした美が生まれるところに、ぼくは見えない次元としての「ふたり」を想定したい気がします。
唯物論的に考えれば、死によって人間の動物的な部分、つまり肉体が消滅してしまえば、その人の感情や情動も消滅してしまうことになります。唯物論というのは、要するに物質しか信じないということですが、最初に書いたようにミシュランは「ふたり」には勝てません。料理という物質の手前に「おいしい」を生み出す「ふたり」がある。自分という有機体の手前に、豊かな情動を生み出しつづける「ふたり」がある。
ぼくたちの生を彩る感情や情動は「ふたり」から生まれ、「死」と呼ばれる契機を経て、再び「ふたり」に還っていく。そんな物語を書くことができればいいなと思いました。
長いあいだお付き合いいただき、ありがとうございました。
片山恭一