日々の小さな真実の積み重ねを親神様がお受け取りくださる
藤江正人(大垣大教会長・46歳 岐阜県大垣市)
教祖百二十年祭の前年から、日々の心定めを実行しています。それは、1日6回のお願いづとめです。名前と年齢、身上や事情の内容を書きまとめた手帳を懐に入れ、その方たちのご守護を願い、勤めています。
その年に、私は修養科に入りました。教祖伝の授業の際に、講師が教祖伝の内容に合わせてご自身のおたすけ話をしてくださいました。たすかる元はおつとめであり、理合いや大切さ、そして、1日6回のお願いづとめをするなかで身上や事情がたすかった話を聞かせてもらい、おつとめの素晴らしさに感動を覚え、私もお願いづとめを始めました。
講師の先生は「お願いづとめを続けていると、心が勇んできますよ」「人にたすかってもらいたいという心になりますよ」とおっしゃっていました。修了式のとき、先生にお礼を申し上げ、このお願いづとめをいつまで続けるかについて、「残り3カ月、教祖百二十年祭くらいまででいいですか?」とお尋ねすると、先生は「十年一節です。教祖百三十年祭まで続けてください。必ず結構になりますよ」と、予想もしない答えでした。これに驚いた私は、「10年ですか!? 分かりました。10年と定めて続けます。その代わり、10年続けて何も結構にならなければ、先生の教会を探して、押しかけていきますよ」と言うと、先生は「どうぞ。待ってますよ」と笑顔で話されたことを覚えています。
心を定めた10年の間には、単独布教にも出させていただきました。道中、つらく苦しいときもありましたが、このお願いづとめのおかげで心を勇ませることができ、おたすけ先に不思議なご守護も見せていただきました。また布教後には、ご縁を頂いて結婚し、子供もお与えいただきました。
教祖百三十年祭への年祭活動も、このお願いづとめをあらためて心に定め、仕切り直して勤めたところ、不妊に悩む夫婦に子供が授かったり、余命いくばくもないと言われた方が命をつないでいただいたり、行方の分からなかった人に出会えたりと、大きなご守護を幾度となくお見せいただきました。三年千日、心を定めることの大切さと教祖ご存命のお働きに感動を覚えました。
そして、お願いづとめを続けて10年目の教祖百三十年祭が勤められた年には、教会長の理のお許しを戴きました。
就任奉告祭を終えた後、先生の教会へあいさつに行かせてもらいました。その理由は「10年前に生意気なことを言ったことのおわび」と「先生のおっしゃる通り、結構な姿をお見せいただいたことのお礼」を申し上げるためでした。先生は喜んでくださり、「『十年は一ふしとして、二十年は尚もしっかりという心を持って』(明治29・3・26)と聞かせてもらいます。次は教祖百四十年祭までお願いづとめを続けてください」と話してくださいました。
日々のお願いづとめを勤めて思うことは、小さなおたすけ心が芽生えてくることです。たとえば「きょうはあの方に会いに行って、こんな話をしよう」「きょうはあの人のためにこんな心をつくろう、こんな行いをしよう」と、相手の顔や、その人のために自分にできることが浮かんできます。おたすけに掛かれば掛かるほど、難しさ、無力さを痛感しますが、日々、月々、年々と、小さな真実の積み重ねを親神様はお受け取りくださって、大きなご守護を下さるものと信じています。
諭達に「身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう」とのお言葉を拝し、親神様にお働きいただくためには、「まずはおつとめ」と思い、今回の年祭活動の心定めとして、お願いづとめと十二下りのてをどりを勤めようと思います。
また「教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである」と、年祭へ向けての通り方をご教示くださいました。この三年千日、教祖のひながたを目標に心明るく勇んで通り、たすけ一条の道を、日々精いっぱい歩ませていただきたいと思います。ご存命の教祖にお喜びいただけるように。