天理時報オンライン

種をまいただけ、次の塚に向かうための実りを頂ける


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平野晴美(薫浜幸分教会長・71歳 静岡県浜松市浜北区)

私が教会長を務めるようになって、教祖百三十年祭に続き、百四十年祭を勤めることになります。いま振り返ると、いろいろな道中をよくお連れ通りいただいてきたなあと思います。その中には「ああ、あれも神様のおかげ、これも神様のお導き」と思える幾多の節をお見せいただきました。

昭和51年3月の結婚当初、なるべく何もない状態から出発しようと、八畳一間の家を借りて新婚生活が始まりました。その後、一軒家を借りて布教所を開設するとともに、本格的に布教活動を開始しました。

よく上級・薫浜松分教会の初代・大石繁位先生から、「年祭活動のときは、ご本部の声に沿って踊らないかん。踊った者が勝ちや」とお仕込みいただいてきました。その意味もまだ深く分からないままに、「そうか、そうすればいいんや」と思えて、ただただ何も先案じせず、ひたすら、にをいがけに歩く日々を通らせていただきました。その時々にお仕込みいただいたことは、私にとって、この道を通る指針となっています。

布教所の隣で塗装業を営むご夫婦ににをいが掛かり、10キロほど離れたご自宅に足を運び、やがて、別席を運んでもらうようになりました。

ある日、「近所にある叔父の家が空き家になったので、平野さんたちに、ぜひその家を使ってもらいたい」と頼まれました。それも、家賃も水道代も無償でとのことです。早速、上級の会長さんに相談のうえ借りることにしました。150坪の土地に5部屋と台所、まきで炊く風呂場という農家の住宅です。

ちょうどそのころ、上級の幅下分教会(現・大教会)は、部内教会があと10カ所増えれば大教会陞級というときで、その機運が高まっていました。私たちが家を借りられたおかげで、当時の幅下分教会長さんから、「あと10カ所の先陣をきるように」とのお声を頂きました。私たち夫婦にとって、これほどの親孝行はないということになり、夫が会長となって新設教会をご守護いただこうと心に決めました。結婚6年目のことでした。

このとき私たちには、まだ子供が授かっていませんでした。神様に「教会の御用に必要な子なら、授けてください」とお願いしていたところ、教会設立3年目に長女を授けていただき、その3年後に長男、さらに3年後に次女と、3人の宝を頂きました。

長女が生まれて1年後、地主さんから、いま貸している土地を売却したいので、その土地を買うか、もしくは出ていってほしいと言われました。

そこで、必死の思いで土地を探すなか、会長が中学時代の同級生にばったり出会い、親切な不動産会社を紹介してもらいました。そうして格安で、道路に面した200坪の土地に、神殿移転建築をすることができました。

また、その19年後、今度は教会のある場所に道路が造られるとのことで、浜松市による土地収用で立ちのきになり、現在の270坪の土地に、2度目の神殿移転建築をすることになりました。

その神殿普請のさなかの平成19年8月、会長が肺がんのため出直し、私がその後を継いで、教会長を務めさせていただき、現在に至っています。

教会では5年ほど前から、息子夫婦が、どんな方にも来てもらえる「家族食堂」を立ち上げました。3年前にコロナ禍となり、一時休止を余儀なくされましたが、令和3年9月から、弁当配布に切り替えて再開しました。

同時に、浜松市社会福祉協議会とつながり、その関連で国ともつながりができ、企業や一般の方々から真実の寄付を寄せていただいています。寄贈された米、食品、日用品、衣類を必要な方に無償でお渡しするフードパントリーも始め、月1回の割合で実施しています。「喜ばさずには一人もかえされん」「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」という教祖の教えと、その御心を体して、よふぼく・信者、ボランティアの方々が一丸となり、勇んで活動させていただいています。

教祖年祭のたびに思うことは、種をまいただけ、次の塚に向かうための実りを頂けるということです。そして、旬にまかねば、種は流れてしまいます。

教祖百四十年祭に向かうに当たり、以下のことを守って通りたいと思います。
①ご本部の旬の声、行事、また大教会の旬の声に沿わせてもらうことを第一優先に!
②日々わが身のことは後回し、人さまのことを第一優先に!
③成ってくる理を素直に喜ぶ、喜び上手になる!
④人が目標ではなく、教祖のひながたをたどる私になる!

これが三年千日、私の心定めです。