「神人和楽」の世界とは – 成人へのビジョン13
「親から親孝行をするように言われたことがない」という友人の言葉が印象に残っています。なぜなら彼は、とても親孝行だからです。社会通念としても、この道の信仰においても、親孝行は大切な徳目とされます。ところが、子が自ら求めるのと、親が子に求めるのとでは大きな違いがあると思います。どうやら、方向性や流れが大切なようです。
たとえば血流。血液の流れは一定方向に維持され、逆流すると、さまざまな疾患のもとになります。そのため心臓には弁があり、逆流を防いでいます。親孝行も、子から親へが通常のルートであり、逆に親が子に望むのは、心情的には理解できますが、口に出すものではないでしょう。もし親が子にそれを望めば、逆流にも似たさまざまな不和を生むかもしれません。吉田松陰の詠んだ歌の一節「親思う心にまさる親心」とは、弁が正常に作用している状態ともいえます。
私が好きな四字熟語は「神人和楽」と「陽気遊山」です。神人和楽は、神と人が一緒になって和やかに楽しむさま(=陽気遊山)を表しています。それは、親神様とその子たる人間の”親子団欒”の姿です。相通い合う、豊かな関係性がイメージされます。
対して、親孝行はどうでしょう。思い浮かぶのは、親に尽くす親思いの子の姿です。親子団欒が、仲睦まじい親と子の両者を想起させるのとは、少し様子が違うかもしれません。私は、神人和楽に魅力的な響きを感じます。
『天理教教典』には、親子団欒と神人和楽の記載がある一方で、親孝行の文字は出てきません。それは、親孝行を軽んじることを意味しません。むしろ、親子団欒と神人和楽の中に親孝行が含まれている、そう考えるのが自然です。しかし、親孝行が特に言挙げされていないのも事実で、私も子を持つ親の一人として、そのニュアンスを大切にしたいと思います。
「家族」という語は文化や時代により、さまざまなイメージを想起させます。残念ながら、それは「親ガチャ」「毒親」などの表現が生まれてしまう現代のように、美しいものばかりではないでしょう。神と人との関係が親子にたとえられる本教の教えにおいて、神人和楽がどんな世界像を結ぶのか。厳しい現実と理想との葛藤の中に、私たちの成人への契機が潜んでいると思います。
可児義孝