「おふでさき」と親心 – 視点
今年4月に「おふでさき勉強会」が始まり、初回に200人を超える参加者があった。
これは、「おふでさき」を心に治め、信仰生活やおたすけに生かすことを目的に企画されたもので、約3年かけて「おふでさき」全十七号を通読する。
教祖の「ひながた」をたどろうとするこの旬に、「おふでさき」を勉強することは大変意義深い。
『稿本天理教教祖伝』第八章「親心」には、教祖のお心が記されている。
上田嘉成先生の回顧談によると、この章の執筆に当たり、中山正善・二代真柱様は「教祖のお心の中へ入って見て来たように書け」と命じられた。そんなことはできそうにもないと思っていると、二代真柱様は「教祖のお心は、皆んなおふでさきの中にある」とおっしゃった。こうして、第八章は「おふでさき」をもとに誌されることになった。
言い換えると、教祖の親心は「おふでさき」の中に具体的に現れている。50年の「ひながた」の裏づけとなる精神は「おふでさき」にある、というのである。
第八章では、「おふでさき」のお歌が、第一号から第十七号まで順を追って誌されていることに気づく。これには、教えられた順序の中にある深い親心を味わってもらいたいという意図が込められている。
二代真柱様が「『神』『月日』及び『をや』について」という研究の中で指摘されたように、親の名前一つとっても、「おふでさき」には、子供の成人を望まれ、その成人に応じて一歩一歩導こうとされる教祖の親心がにじみ出ている。
二代真柱様は、「おふでさき」と「ひながた」について、次のように述べられている。
「ひながたは、その御行動にのみ窺われるばかりではありません。おふでさきの中にもまた、陽気ぐらしへの足取りのひながたが窺えるのであります」
『天理時報』昭和34年1月1日号
「おふでさき」を繰り返し拝読する中で、教祖の親心を求めさせていただきたい。
(山澤)