いま・ここにある味わい – 成人へのビジョン14
十二下りを通して勤めると「心」(こゝろ)が繰り返し出てくることに気づきます。信仰は心が大切、そう感じます。
ですが、心がすべてかというと、果たしてそうでしょうか。お言葉に「身の内離れて神はなし」とある通り、身体性を排して「心がすべて」はいかにも乱暴な話です。
では、人間の存在を心と体の二つに峻別する、いわゆる心身二元論かというと、それも違うようです。「心通り皆身に映してある」(おさしづ明治21年2月15日)のお言葉が示す通り、心身は互いに通じ合う、密接不離な関係にあるのです。かしもの・かりものの理を思えば思うほど、心身の結びつきに眼が開かれていきます。
ところが、人は往々にして心と体を分けて考えがちです。食事中でも頭の中はほかのことでいっぱい、そんな経験は誰しもあります。そうした「心身の結びつきの喪失」が極端になると、人は「生きている感じがしない」と感じるのではないでしょうか。
教祖は「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」とおっしゃいました。
ここでは、水(与え)、体(身の内のご守護)、心(私)の三者が渾然一体となって一つの生を形成しています。水の性質も、舌の味覚も、心という主体も、どれも単体では、このお言葉の意味を十全に捉えきれません。私は端的に「味がする」に、その十全性を見ます。
「味わう」は、与え、身の内のご守護、私たちの心、そのどれ一つ欠けても成立しません。それらが呼応し一体となって初めて立ち現れる世界です。私はここに「生きる」の本質を思います。
また「味わう」は他の動詞と比べ、遙かに心を要します。水という無色透明・無味無臭なものであれば、なおさらでしょう。こうした行為による「栄養補給」は、生命維持のための手段ですが、「味わう」には、食事それ自体を楽しむという充足感があります。それは与えやご守護を能動的に享受し、堪能する姿です。
――私は水を味わっているだろうか。水に限らない。空気は、景色は、音は、香りは、人とのふれ合いは。私はそれらを味わって生きてきただろうか。いま、味わっているだろうか。
自由の世界は、きっと眼前に広がっているのです。
可児義孝