教史再彩“道のさきがけ”を今に – 農繁期託児所
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。
その彩色された世界から見えてくるものは――。
子供たちが安心できる場所を
農繁期に乳幼児を預かる季節託児所。親たちから感謝され、地域社会の評判も良かった。そして、何よりも子供たちが安心して過ごせる場所だった。
「神前や庭先に嬉々として打ち戯むれる彼等児童には全くの楽園であって、神恩に安らけき眠りを続ける無心の子女の顔にも清純な微笑が浮かんでいた」
(『天理時報』昭和7年7月21日号から)
田植えや稲刈り、養蚕など、農村の春と秋はとても忙しい。親は子供のことが気になっても、目を離す時間がどうしても長くなる。
こうしたなか、大正時代に各地で始まった教会での農繁期の季節託児所は、農家の人たちにとって頼りになる場所だった。
その一つ、島根県の周吉宣教所(当時)の託児所は、昭和3年に開設された。神殿横の平屋(2間×3間)を児童保育室に充て、約10人の大人が世話係を務めた。小学校の校医や歯科医による児童の健康診断も随時行われた。
一日の動きは午前7時に始まる。小学生の兄姉が登校する際、幼い弟妹を教会に連れてくる。集まった子供たちは神前で礼拝した後、広い敷地内で嬉々として遊ぶ。敷地内にはオルガンやシーソー、ブランコ、滑り台、蓄音機などが設置された。折り紙や粘土、積み木細工に興じることもあり、時には遠足や登山に出かけることも。夕方になると、学校帰りの兄姉たちと共に帰路に就いた。
また、教会にいる間、神殿の出入りや食事の際のあいさつを世話係から教えられた。「食事の好き嫌いを言わぬようになった」「礼やあいさつをするようになった」と、子供の変化に親たちから感謝の言葉が届いた。
昭和に入ると、農繁期託児所はますます広まる。11年には、教祖50年祭と立教100年祭の「両年祭記念社会事業」が発表され、農繁期託児所も支援を受けることになった。18年の春と秋には、35教区で計144カ所の託児所が開設されている。
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現在、全国各地の教友は、「こども食堂」や里親、子育て支援など、さまざまな養育活動に取り組んでいる。
その内容は多岐にわたるが、胸に抱く思いには共通するものがある。新潟で里子を預かる教友は、「事情に悩む子供たちを一人でもたすけたい」と話し、岡山で「こども食堂」を開く教友は、「子供や親が安心して寄り集える場所をつくりたい」と語る。
さかのぼれば、昭和9年に託児所を開設した長野の女性布教師も思いは同じだった。「農繁期に各戸とも幼児の守に困っているのを遺憾」に思い、「私に出来るか出来ないか、思いきってお引き受けしてみた」と、農家の幼児を預かるようになった。
「子供たちが安心できる場所を」
現在の教友も、90年前に農繁期託児所を開いた教友も、胸に抱く思いは変わらない。その取り組みは、子供をたすけずにはおれない教祖の“慈しみの心”に近づく歩みといえるだろう。