北京五輪とは何だったのか – 手嶋龍一のグローバルアイ10
北京オリンピックのスキー会場の山々を覆っている真っ白な雪。テレビ中継で見る限りはじつに美しい真冬の風景だった。だが、それは人工で降らせた雪である。そう“フェイクの新雪”なのである。ザラついた感触だったと選手たちはいう。この光景は今回の北京五輪を象徴的に物語っている。
スキージャンプの混合団体では、髙梨沙羅選手がスーツの規定違反で失格とされ、ロシアオリンピック委員会として参戦したフィギュアスケート女子のカミラ・ワリエワ選手はドーピング疑惑のなかでリンクに姿をみせた。こうしたなか、フィギュアスケート男子の羽生結弦選手はリンクの溝に足を取られて3連覇を逃し、髙木菜那選手もスケート団体追い抜きでゴールを目前にしながら転倒してしまった。
大会のホストである中国側の責任だと断じるのは公正を欠くが、後味の悪い一連の出来事は、北京五輪の苦い記憶として人々に刻まれることになるだろう。近年のオリンピックは大会の費用が膨らみ、資金力のある大国でなければもはや引き受けられない。中国はその実力を備えているのだが、それだけにオリンピックを国威発揚に存分に役立てた。
開会式に多くの国の首脳らを招こうとしたが、ウイグルや香港での人権弾圧に抗議して外交ボイコットをした国も多かった。ロシアはドーピング疑惑で国としての参加は認められなかったが、開会式にはプーチン大統領が自ら出席し、習近平主席と中ロ首脳会談に臨んでいる。この席でウクライナのNATO参加に反対することを申し合わせ、ウクライナ情勢は北京大会を通じて深刻の度を増していった。
「感動をもらった」「勇気をもらった」というのは競技を見る側の常套句だが、いまやオリンピックは政治と一線を画した“平和の祭典”ではもはやありえない。日本もそんな幻想から、そろそろ抜け出す時が来ていると思う。
かつて美しい石畳の街で接したウクライナの人びとが抱く戦争への恐怖を思い浮かべながら、閉会式と共に深まりゆくウクライナ危機から瞬時も目が離せない。(20日の閉会式を見つつ)