節から得られる教訓 – 視点
東日本大震災から11年が経った。平成23年3月11日に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震で発生した津波は、岩手、宮城、福島の沿岸部を襲い、死者、行方不明者、震災関連死が約22,000人を超える甚大な被害をもたらした。
3月11日には各地で「震災の教訓を風化させない」ことが呼びかけられた。風化とは、記憶や実感が時間の経過とともに薄れていくことである。
ひとたび津波が来たら防ぎようがない。しかし、東日本大震災では「逃げろ」との警告に応じずに犠牲になった人が少なくない。その経験知は、津波から命を守る手だては唯一、避難しかないという教訓を残した。
だが、教訓の風化を感じさせたのが、今年1月に起こった南太平洋トンガ沖の大規模な火山噴火である。
このとき岩手県沿岸に「津波警報」と「避難指示」が出された。しかし、避難所や避難場所に身を寄せた住民は対象人数の4.7%に過ぎなかったという(『河北新報』3月8日付)。津波の恐怖を最も知るはずの被災地であっても、避難行動に結びつかなかったのである。
結果的に陸域への被害はなかったが、「ここは安全」との思い込みや「警報があったのに津波は来なかった」という体験が度重なると、教訓は徐々に風化していく。この場合、教訓は命に関わる。
翻って、人生の節を思う。人は人生の中で、思いがけない病気や逆境に遭うことがある。そのなか親神様にご守護を願い、不思議なたすけを頂く。
しかし時が経つと、病んだ日の苦しみ、ご守護の感激、そして誓った心定めが薄れていくことがある。その心定めは、その人にとって命に関わる教訓のはずである。
「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」
(おさしづ明治31年5月9日)
「忘れて了う」とは風化することともいえる。だからこそ信仰の元一日は、代を重ねて語り伝えることが大切である。震災に限らず、節から得られる教訓は決して忘れてはならない。
(加藤)