戦争への思召を思案する – 視点
連日の報道でウクライナでの凄惨な状況を目にし、動揺と悲しみが止まらない。あらためて原典を紐解き、こうした事態に対する親神様の思召を思案してみたいと思う。
「おふでさき」には、戦争を意味する語「たたかい」を含むお歌が1首ある。
月日よりしんぢつをもう高山の
おふでさき(十三号50)
たゝかいさいかをさめたるなら
この「戦い」は、明治10年の西南戦争のことを例にしていると伝えられている。西南戦争は、明治政府が樹立される過程で、不満を持った勢力を政権側が武力で討伐した日本最後の内戦といわれ、悲惨な戦いが繰り広げられた。
このお歌の7首前から続く一連のお歌には、この戦いに対する親神様の思召が明示されている。
せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞやこのもとをしりたるものハないのでな
おふでさき(十三号43・44)
それが月日のざねんばかりや
人間は等しく兄弟姉妹の間柄で他人ではない。それを知らずに互いに争い傷つけ殺し合う姿に、親神様は強く残念の思いを示されている。
次のお歌には、
高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひいそれよりもたん/\つかうどふぐわな
みな月日よりかしものなるぞそれしらすみなにんけんの心でわ
おふでさき(十三号45・46・47)
なんどたかびくあるとをもふて
と、親神から身体を借りて生きているという点では何人も例外はなく、それを知らずに人間に高低があるように思い上がっているのは間違いであると指摘され、そのうえで、
これさいかたしかにしよちしたならば
おふでさき(十三号49)
むほんのねへわきれてしまうに
と、世界中の人間がこの真実を承知することができたなら、争いの根はおのずと切れてしまうのだと仰せられる。
この思召をまず自らの心に照らし合わせて反省を重ね、日々のおつとめで人々のたすかりを願い祈りたい。
(諸井)