神意を治めお働きを願って – 視点
ロシアがウクライナへ軍事侵攻を開始してから1カ月以上になる。各地で戦闘が続き、事態は収まる気配がない。
この状況に対して、教会本部ではホームページ上にメッセージを公開。また国内の教会や海外の布教拠点では、避難した人々の受け入れを申し出る動きも出てきている。
こうした世界での大事情については、親神様の残念の現れであると教えられるが、具体的に道の者として、どのように思案するよう教えられているのか。その手がかりを「おさしづ」に求めたい。
明治37(1904)年、日露戦争が勃発した折、本教では、戦死者子弟学資補助会の結成を願って「おさしづ」を伺うと、次のお言葉があった。
「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう」
おさしづ(明治37年8月23日)
これは「おふでさき」についての有名なお言葉である。事の是非について直接述べられるのではなく、教えの根本である「おふでさき」に神意を求めるよう諭されたのである。
ここでいわれる「おふでさき」のお歌は、具体的には十三号43‐51などを指すのであろう。さらに、お言葉は次のように続く。
「これまで諭し置いたる理は、仮名な柔らかい中に、要々の言葉諭してある。(中略)一時この際、もうこれなあという、何か治め方、皆手も付けてある」
これまでに教祖が教えられた教理の要点は、みな「おふでさき」に記されている。そして、戦争という事情を治める方法について「つとめ」が教えてある。「つとめ」によって治めると言われているのである。
現実問題として、戦争は主に政治によって対処される問題であり、私たちが直接関与し得ない問題と映るかもしれない。しかし神意を治め、親神様のお働きを願うところに道の者としてのつとめがあり、その信念こそが大切である。
「精神定めて、しっかり踏ん張りてくれ。踏ん張りて働くは天の理である、と、これ諭し置こう」
「おさしづ」は、こう締めくくられている。
(山澤)