古人の呼びかけ – 成人へのビジョン2
可児義孝
松尾芭蕉が好きです。といっても俳句ではない、彼の俳論が好きなのです。のちに「俳聖」と呼ばれる彼は、当時の俳壇から独り離れ、新しい道へと進みます。そこは既存の尺度では測れない新たな領域。その価値を誰も保証してくれない。それでも彼は歩み続けました。自信と情熱を宿す者だけが、新境地を切り開くのでしょう。
その芭蕉に次の言葉があります。
「俳諧ニ古人ナシタダ後世ノ人ヲ恐ル」
――現在における俳句の到達点は、いま自分が立っている此処だという自負がある。先人の句は手本ではあるが、新たな価値を創出しない。しかし、未来の人間は別だ。いまの自分では持ち得ない新奇な視点や感性を発揮する人間が、いつ現れるとも限らない――。ここには自身の句に対する絶対の自信と、“俳句の未来”への謙虚さが同居しています。
芭蕉が「後世ノ人」を恐れたのは、俳句の可能性を誰よりも信じていたからです。自分の代で俳句が完成するはずはなく、尽きることない可能性がその先に広がっている。それは恐れでもあり、同時に、未来に託されているということです。
翻って、信仰の世界はどうでしょう。代を重ねて信仰心は薄まったのか。それとも、新たな精神が生き生きと躍動しているのか。
信仰にとって、そのルーツが大切であることは自明です。私たちの信仰をたどれば、最終的にをや(親神様・教祖)へと回帰する。もし、その回路を断てば、コンセントから電源プラグが抜けた状態のようにエネルギーは流れません。とはいえ、その作動媒体は時代とともに変わります。白熱電球もLEDも、同じ電気が流れているのです。
私たちは先人の目に「後世ノ人」と映るでしょう。それは止めどなく生成変化する社会の先端で、現代に呼吸する信仰者です。そこでは日々新たな感性や価値観が生まれています。一方、私たちの信仰が依拠する教祖のひながたや原典は不変です。
僕は思う。この変化と不変の往来の中に、いまだ見えぬ信仰の姿が芽を吹く。「後世ノ人」たる私たちの内に“信仰の未来”が宿っているのではないか、と。
芭蕉はこうも言っています。「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」
その呼びかけに応答するのは、令和を生きる私たちなのです。