待ったことへのご褒美 – わたしのクローバー
川村優理(エッセイスト・俳人)
1958年生まれ
子どもたちは、待っていることが多いように思います。買い物に行ったお母さん、野球の試合を見に来てくれるはずのお父さん、いつか買ってくれることを約束された自転車……。
私も小さいころ、母親の帰りを公園で待っていたり、父親の帰りを待ちきれずに、勤め先の小学校まで迎えに行ったりしました。
待っている若者たちも多くいます。
恋の告白への返事。自分に合った就職先に巡り会うチャンス。既読のついたLINEの返信……。
待っている時間を、人は長く感じるものです。期待し、不安になり、時にそれは寂しさと悲しみの時間ともなります。
年齢を重ねて待つ経験の数が増えれば、もう、あまり期待はしなくなりますけれど。
新型コロナの流行に思う
新型コロナウイルスの流行は、人々に待つことを強いてきました。
命の危険にさらされた人も、仕事がうまくいかなくなった人も、就職や進学や結婚のチャンスを逃した人もいて、いつになれば健康で安全な毎日が戻ってくるのだろうと、人は待つことのつらさを共有しました。
マスクや消毒が必須の生活となり、周囲の風景もずいぶん変わりました。
私は、町に残されている江戸時代の古民家を利用した博物館で働いているのですが、コロナの感染拡大防止のために、すべてのイベントを中止し、飲食の提供もやめました。入館者も収益も減りました。
イベントに使われたはずの時間と、人のいない静けさが、古い屋敷に残されました。
古民家の蔵には、まだ開けていない箱、ページを開いていない書物、埃をかぶった道具があります。この機会に整理を進めようとして、それらすべての文物に、それぞれの時間があったことに気がつきました。彼らは、気の遠くなるような時間を、ここで待っていたのです。
亡き父の言葉「冬とは増ゆ」
この町で幕末に起きた事件について、その目撃者が書いた本を見つけました。難解なので大変な思いをして読みましたが、かつて、いくつかの冤罪があり、濡れ衣のまま亡くなった人がいたことを知りました。
待つというのは、つらい思いをしたり損をしたりする時間なのでしょうか。
我慢して待っていた人には、どこからか、何かおまけのようなものを頂けるといいな、と思います。
「よく待っていたね。ごほうびをあげるよ」
子どものころ、お母さんを待っていると、たいていご褒美がありました。
「冬というのは、じっとしてエネルギーを増やす時間なんだそうだ。だから、増(ふ)ゆ」
亡き父の言葉を思い出しました。
児童文学に情熱を捧げた父は、いつも静かに原稿用紙に向かって、自分の世界を描いた人でした。出版のチャンスを待って10年。賞をもらうまで、さらに10年。待ったことへのご褒美が、父に届いたのかなと思います。