日本に文化の種を蒔いた男 – 日本史コンシェルジュ
2023・7/26号を見る
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「ジョン万次郎」こと中浜万次郎の人生には、「数奇な運命」という言葉がぴったり。土佐の貧しい漁師の家に生まれた万次郎は、14歳のとき、仲間と漁へ出て遭難。漂流7日目、絶海の孤島「鳥島」に上陸しました。
過酷な無人島生活で気力、体力が限界に達するなか、漂流から143日目に米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が現れ、少年たちは救出されます。万次郎は喜びを爆発させ、嬉々として船員たちの手伝いをしたので、誰からも可愛がられました。やがて万次郎は、船名にちなんで「ジョン・マン」の愛称で呼ばれるようになります。
船長は万次郎を除く4人をハワイで降ろし、万次郎だけ米国本土へ連れて帰りました。彼に教育を受けさせてやりたいと願ったからです。
ある日、船長と万次郎が教会を訪れると、「白人ではない」という理由で万次郎だけ拒絶されます。すると船長はその教会と絶縁し、万次郎を受け入れてくれる教会に宗旨替えをしたそうです。船長の愛情の深さが伝わってきますね。
やがて捕鯨船の乗組員になった万次郎は、数年の航海を経て、仲間と共に帰国を果たします。万次郎24歳、ペリー来航の2年前に当たる1851年のことでした。万次郎は琉球から薩摩へと送られ、薩摩藩主・島津斉彬が選抜した家臣団に、航海術や船舶知識を教えました。数年後、薩摩藩は日本初の国産蒸気船の建造に成功します。
翌年、万次郎は念願叶い、ついに故郷へ。土佐藩では絵師・河田小龍が万次郎から西洋事情を聞き書きしていきました。のちに小龍の元へ、ある若者が通うようになります。若者は米国の合理的な考え方に感動し、新時代の構想をまとめました。その若者の名は、坂本龍馬。さらに土佐の藩校の教授となった万次郎は、岩崎弥太郎に海運、造船、保険などの知識を教えます。これが、のちの三菱の事業に生かされるのです。
その後、咸臨丸で渡米した万次郎は、福沢諭吉に『ウェブスター辞典』の購入を勧めました。この辞典は諭吉の大切なパートナーとなり、彼の著作活動を支えていきます。
こうして万次郎の蒔いた種は、いくつもの美しい大輪の花を咲かせました。この奇跡は、万次郎の並外れた精神力と愛される人柄がもたらしたものでしょう。彼は終生ホイットフィールド船長への感謝を忘れることはありませんでした。両家の子孫は今も交流を重ね、友好の絆を育んでいるそうです。