根気よく心澄みきる道へ – 視点
前号に続いてウクライナの戦禍について述べたい。
テレビやネット映像で目にする惨状には戦慄を覚え、同じ人間のすることとは思えない。しかし、これが世界の現実である。事によってはアジアへ波及する可能性も語られ、他人事と見過ごせない。こんな中で、信仰者として何ができるのだろうか。
この道を信じる者は、節に際したとき、状況を把握し、そのときにできる最善の対処、理のうえの思案をセットで考える。たとえば病気の場合、病状の把握、医療や看護態勢、そして心の思案に伴う心定めへと思いを巡らしていく。
今回の戦禍の背景はマスコミ報道に詳しいので言及しないが、具体的支援では、たとえば天理大学は元留学生だった避難希望者家族を天理市と協同で受け入れた。すでに関係がある場合は直接的な支援もしやすいが、現実には遠い日本でできることは限られるだろう。
しかし私たちには、おつとめを勤めて親神様に祈ることと、心を入れ替え陽気ぐらしを目指す教えがある。今回、国家の政治体制や国際機関の調停力には限界があることが、あらためて浮き彫りになった。結局、自分の心はもちろん、相手の心にも我欲や猜疑心が巣くっている限り、争いは起こり得る。だからこそ、本教が掲げる、人類は等しく親神様を親に持つ兄弟姉妹である真実を知り、自らの心のほこりを払い、人をたすけて我が身たすかる境地を目指す陽気ぐらしの教えを、世界中の人々に伝えることが究極の解決方法であり、それが可能なのは、この道を信じる私たちなのである。
その手だてをひながたに探ると、教祖は、世界一れつをたすけることを目指されたが、実際になされたことは、村人や寄り来る人など身近な人たちを、一人また一人とたすけ、根気よく心澄みきる道へと導かれた。
そして、たすけられた人が次の人々を誘って、道は広まっていったのである。
いま私たちがすべきことも、世界中の人々のたすかりを祈り、自らの心を澄ます努力をしつつ、身近な人にたすけの手を差し伸べ、教えを映し伝えていくことである。
(松村義)