この国を救った「一番槍」の精神 – 日本史コンシェルジュ
1905年5月27日から28日にかけて、日本の命運を決める一戦が繰り広げられました。日本海海戦。大国ロシアに日本は挑み、陸軍は勝利を重ねましたが、もし海軍が敗れれば、補給路を断たれた陸軍も壊滅、おそらく日本は独立を失っていたでしょう。
この戦いで歴史的大勝利を収め、名将と謳われたのが東郷平八郎です。後年、東郷は、ある人物の子孫を自宅に招き、感謝の言葉を述べたといいます。その人物とは、幕臣・小栗上野介忠順。「この勝利は、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ」。それが東郷の思いだったのです。
1860年、徳川幕府は日米修好通商条約の批准書の交換のため米国に使節団を派遣しました。その要となる監査役を務めた忠順は、先進国と植民地の両方を見て、日本の独立を守る道を模索しました。彼の導いた結論は「西洋諸国と貿易をして経済力を高めながら、科学技術を磨き、列強と互角に渡り合えるだけの軍事力を身につける」というもの。彼が帰国後に着手、あるいは意見を提案した分野は、造船・鉄道・ガス灯・電信などの技術から、政治や経済の仕組みまで多岐にわたりますが、なかでも最も力を注いだのは、横須賀造船所の建設でした。
「莫大な費用をかけて造船所を造っても、完成したころには幕府がどうなっているか分からない」と反対する者に、忠順は「幕府の運命に限りはあるとも、日本の運命には限りがない。幕府のしたことが長く日本のためになるのであれば、徳川家の名誉ではないか」と答えたそうです。
大政奉還後、明治政府軍と幕府軍の間で武力衝突が起こると、忠順は徹底抗戦を主張。しかし、それは将軍・徳川慶喜に受け入れられず、忠順は幕府の職を解かれます。先祖代々の知行地・権田村(現在の群馬県高崎市)に移り住んだ忠順は、田畑を耕しながら用水路を築いたり、若者の教育に打ち込んだりと、村のために尽くしました。けれども、その穏やかで充実した日々は突如、終わりを告げます。新政府軍に捕らえられ、打ち首にされたのです。忠順の実力を、新政府軍が極度に恐れたからだといわれています。
かつて徳川家康に仕えた小栗忠政が「また一番槍は忠政か」と家康を感嘆させて以来、小栗家の当主は代々「又一」を名乗ってきました。激動の時代に、先陣を切って世界へ飛び出した忠順も、「又一」の名に恥じない、まさに「一番槍」の精神を貫いて、この国を危機から救ったのです。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)