母屋の取毀ちと心のふしん ‐ 視点
筆者の個人的な思いかもしれないが、このたびの感染症禍によって、さまざまな面で、ものの見方や考え方が変化したという自覚がある。信仰そのものに変わりはなくとも、自分にとって今まで常識と思われた事々が色あせ、思いもしなかったことが生き生きと心に映り有難く思えて、大袈裟に言えば、地に足が付いた心境になった。そして「自分にとって今まで常識と思われたこと」の多くが、それを長く続けてきたという理由で変えられなくなっていたことにも気づかされた。
教祖年祭を仕切って成人を期する旬が近づくなか、次のひながたが思い浮かぶ。
教祖が貧のどん底へ向かわれる嘉永6年、いよいよ売られることになった中山家の母屋を取毀ち(解体)なされたという象徴的な逸話が『稿本天理教教祖伝』に記されている。
そのとき、教祖は「『これから、世界のふしんに掛る。祝うて下され』と、仰せられながら、いそいそと、人夫達に酒肴を出された。人々は、このような陽気な家毀ちは初めてや。と、言い合った」。世上におけるイエの象徴でもある母屋の取毀ちは、世界たすけの神のやかた建設への準備とも取れる出来事である。
形のふしんとともに心のふしんが肝心と常々お聞かせいただく。もしも「これから、心のふしんに掛る」と仰せられたならば、やはり、心の中の不要なものをいったん取毀ちをしなければならないのではないか。分かっていても変えることができなかった人間思案や、不要なこだわりや偏見を、思いきって取り除いて更地にしてこそ心のふしんも進み、成人への歩みとなって、やがて現状の困窮する事態にも新たな進展を見るという心通りのご守護が頂けるのではないだろうか。
筆者自身、心を更地にして「教祖のお心を想う」という新築の心のふしんをさせていただきたいと、近ごろ思えるようになった。
(橋本)