涙と背中合わせの「微笑み」- 視点
2024・2/14号を見る
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いまや駅や空港、観光地はインバウンド効果なのか訪日外国人でにぎやかだ。国が変われば習俗、習慣などの文化も異なる。日本は外国人にどう見えているのだろう。
訪日外国人にとって不可解なものの一つに、日本人の微笑があると聞く。120年前、ラフカディオ・ハーンは「日本人の微笑ほどわれわれ西洋人を驚かせ、奇異で不可解な気分にさせるものはない」と随筆『日本人の微笑』に書いた。つらいことや苦しいことがあっても微笑を絶やさない日本人。その不可解さは、当時の外国人には「不真面目さ」と受け取られたという。
ハーンは40歳で記者として来日。日本に惚れ込み、1896年に小泉八雲と改名した。先の著作では、微笑に潜む日本人の深層心理を解き明かしている。
ある母親の挿話がある。「初生児を失った母が葬式のときにどれほど烈しく泣いても、奉公していれば、微笑みをもってその不幸を話すだろう」と紹介し、ハーンは「こんなつまらないことにお心を悩まさないでください」という礼儀正しさと捉えた。どんな状況でも自分が取り乱しては相手に気を使わせる。その礼儀正しさは、わが悲しみで相手の心を煩わせまいとする慎みであり、日本人の美徳であると解した。
笑顔、微笑みは、国や人種を超えて誰もが当たり前に持つ感情表現である。しかし心は多面的で、陽の当たる面を見るだけでは、陰になる面には気づかない。人には喜びに満ちた微笑みもあれば、微笑みをまとった悲しみもある。内に秘めた心の言葉は、深く寄り添うことで、ようやく聴こえてくるものかもしれない。いま、それは「令和6年能登半島地震」の被災に苦しむ人々にもいえよう。
被災地では多くの人々が家族はもとより、仕事や家を失った。テレビ報道で、被災者が「大丈夫、頑張んなきゃ」と笑顔で話す場面を見る。その微笑みは、ハーンの言う涙と背中合わせなのかもしれない。聞く側が「大丈夫」の言葉と笑顔に安堵することで、心の奥底にある痛みに気づかないこともある。
被災の甚大さを思うと復興への道は長いだろう。本教では、災害救援ひのきしん隊が出動して被災者に親身に寄り添い、世界の教友はおつとめで治まりを願う。それが復興の曙光になることを信じて。
(加藤)