有るものに目を向け – 道を楽しむ
2024・3/6号を見る
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信仰生活の中で、よく耳にし口にもする「成人」という言葉。「成人の旬」とか「心の成人」とか「成人目標」など、年祭活動中であればなおさらである。
一般的には大人の意味で使われるが、お道の「成人」とはどういうことを指すのか。年祭活動のたびに自分なりに思案してきたが、かねて二代真柱様ははっきりとお示しくださっている。
「心の成人という事は、然らば何であるか、これは簡単にして、むつかしい事であるが、一言にして言うならば、陽気に総べてのものが自分の心に嬉しく映って来る様な、心の持ち方に御守護を頂く事である」
昭和30年7月30日、第10回管外高校生おぢば修養会でのお言葉
つまり、目の前に起きてきたことが良いことであろうが悪いことであろうが、心から喜べるということだ。
このお言葉により、心のモヤがすうっと晴れた。しかし、成ってきたことを喜ぶのは容易ではない。些細なことならまだしも、深刻なつらい状況を前にして、真に喜ぶことは難しい。だからこそ「成人」とは、私たちお道の者にとって生涯かけて目指す目標であり、年祭ごとに、その歩みを進めようと努力すべき課題なのだと思う。
どうすれば成人の歩みを進めることができるのか。私はいつも視力検査で見る、あの記号「C」を思いだす。これを見るとき、欠けている部分に目が行く。どんなにたくさんの恵みがあっても、私たちは足りない部分に目が行きがちで、ついつい不平不満を言ってしまう。無いものに目を向けて不足する姿である。
ここ数年、コロナ禍で思うようにいかないことが多々あった。しかし、よくよく考えると、コロナ禍以前と変わりなくできていたことも結構たくさんあった。できなかったことが印象深いために、何もかもできなかったように思ってしまったのだろう。
「水を飲めば水の味がする」とお教えくださるように、無いものに目を向けて不足するのではなく、有るものに目を向けて喜ぶことができれば、少しずつでも成人の歩みを進めることができるのではないか。年祭活動の旬こそ、あらためて心せねばと自省している。
中田祥浩・花巻分教会長