脱「選択的共感」への思案 – 視点
2024・5/29号を見る
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イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃で、南部ラファでは検問所が閉鎖され、すでに飢饉の状況が深刻化しているという。死者や負傷者が日々増える一方で、国際社会はこの未曾有の人道的危機を収拾するすべを、いまだに見いだせていない。
こうした事態を受け、イスラエルの作家エトガル・ケレット氏は、”同胞”であるイスラエル人に対し、他者(パレスチナの人々)に共感する能力を欠いていると指摘する。ケレット氏は、負傷や飢えに苦しむ多くのガザの人々に対し、イスラエル側は自分たちの痛みのみを強調し、逆の立場の人々の痛みを見過ごしているとして、その姿勢を批判的に「選択的共感」と呼ぶ。イスラエルの人々が、こうした態度を自ら乗り越えて、脱「選択的共感」の姿勢へと脱皮することが、イスラエルが真の民主主義の国であることを示す道だと訴えかける(『朝日新聞』2024年4月18日)。
だが、そもそも人間が抱くことのできる共感は、「選択的」にしかあり得ないのではないか。たとえば、私たちがガザの人々の苦難に想いを馳せているこの瞬間にも、ウクライナで、アフガニスタンで、シリアで、イエメンで、そのほか地球上のさまざまな場所で苦しんでいる数多の人々が存在する。そうした苦難のすべてに対し、私たちが同様の共感を抱くこと、また抱き続けることは難しい。
それはひとえに、個別・具体的な状況に身を置く人間の関心や感情が、周囲のごく限定された関係性を基点とせざるを得ないからだろう。私たちの日常生活の中で、何かが何かとして意味を持って立ち現れるのは、意識的・無意識的に、すでに何らかの「選択」が作用しているからにほかならない。
翻って、「このよふを初た神の事ならば せかい一れつみなわがこなり」(おふでさき四号62)との教祖のお言葉は、いわば脱「選択的共感」を極限にまで高めた姿と捉えることはできないか。こうした親心への思案により、不可避的に選択的共感に終始せざるを得ない人間にとって、教祖のひながたをたどることの今日的な意義が、また新たな角度から浮かび上がってくるのではないだろうか。
(島田)