未来からの「てびき」- 視点
親里で「立教185年教会長夫妻特別講習会」が開催され、『みちのとも』に両統領のインタビューが掲載されるなど、教祖140年祭に向けての機運が徐々に高まりつつある。
教祖年祭に向かっては「たすけの旬・たすかる旬」といわれるが、それは見方を変えると、自分を含め周囲に身上・事情を見せられることが少なくないということでもあろう。
身上・事情に関して、お道では二つの観方があることに気づく。
一つは、心の「ほこり」の結果と見る観方と、親神による慈愛の「てびき」とする観方である。
このことについて、かつて高野友治・天理大学名誉教授は「『いんねん』か『てびき』かにまつわる問題」という論考で、次のように指摘している。
「私は、天理教の教えは、『いんねん』よりも、『てびき』に主体があると、(中略)論じた。しかし因縁を否定するものではない。一つの事態が起こるということ、そのことの原因は、過去から押し上げてくる力と、未来から引っ張っている力の作用による。(中略)私のいいたいのは、その場合、過去からの力と、未来から引っ張っている力の比率である。私は、それを三分七分とみるのである。未来からの力が七分だというのである」
(『教祖おおせには』)
すなわち、身上・事情を「いんねん」とする考えは、過去に原因を求める観方であり、「てびき」とする考えは未来に力点を置く観方である。その割合は三分七分ほどで、陽気ぐらしをさせるための、未来からの「てびき」に重点があるのではないかというのである。
この指摘は、とても大事だと思う。現れてきた身上・事情は、原因のほうからは「ほこり」であるが、それを現される親神様の思召からは、親心ゆえの「てびき」なのである。
この思召を探り、求めるところに、信仰の有り難さと醍醐味があるといえよう。
教祖の「ふしから芽が出る」とのお諭し、あるいは先人の「身上・事情は道の花」との言葉を忘れず、勇んで歩みを進めたい。
(山澤)