不屈の心が歴史をつくる – 日本史コンシェルジュ
日本初の本格的な西洋医学の翻訳書『解体新書』 。
この翻訳事業は、若狭(現在の福井県)小浜藩の医師・杉田玄白と、豊前(現在の大分県)中津藩の医師・前野良沢を中心に進められました。
1770年、良沢は遊学中の長崎で『ターヘル・アナトミア』という、オランダ語で書かれた人体の解剖学書を入手しました。ちょうどこのころ、江戸幕府は医学の発達のために解剖を許可したばかり。翌71年春、江戸に戻った良沢は、杉田玄白と共に、処刑場で罪人の死体の解剖に立ち会います。
実は玄白も、別ルートで『ターヘル・アナトミア』を入手していました。二人は、それぞれ持ち込んだ解剖図と実際の解剖を見比べて、あまりの正確さに驚きます。そして、この本を日本語に翻訳しようと決意するのです。
蘭学を学んだ経験のある良沢は、単語の一部を理解できましたが、ほかのメンバーは、オランダ語の知識がほぼゼロ。当然、分からない単語が続出し、彼らは長崎から江戸にやって来たオランダ通詞(通訳を担当する幕府の役人)に教えを請うことにしました。ところが良沢の質問に、オランダ通詞は答えることができませんでした。
しかし、歴史を変える人物の考え方というのは、素晴らしいですね。良沢と玄白は「自分たちは、オランダ通詞にさえできないことを成し遂げようとしているのだ!」と、闘志を一層かき立てられたのです。
とはいえ、闘志だけで翻訳できるほど現実は甘くありません。オランダ語の言葉の中に、どうしても日本語に置き換えられないものが出てきました。つまり人体の器官や組織で、日本語の名前がまだついていないものがあったのです。
結局、彼らは言葉そのものを作ってしまいます。「神経」「動脈」「軟骨」などは、解体新書の翻訳で生まれた言葉です。こうして彼らの不屈の精神と創意工夫が、不可能とも思われた事業を成功へと導き、74年に『解体新書』は発刊されました。
その後も良沢はオランダ語の書物の翻訳に尽力しますが、本来の藩医としての仕事を怠っていると同僚から訴えられたことがあります。
これに対し、中津藩主・奥平昌鹿は「医師としての日々の仕事も大事だが、後世の民に有益なことを成そうとするのも立派な仕事である」と、良沢を支援し続けました。実は高価な『ターヘル・アナトミア』を良沢に買い与えたのも昌鹿でした。偉業の陰に名君の存在があったことも、記憶に留めておきたいですね。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)