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優しく温かい義兄から受け継いだ命のバトン – 家族のハーモニー


「ぞうさん、くまさん」

私は周りの人たちから「くまさん」と呼ばれて久しい。それは「白熊」という、一風変わった名字に由来する。そして、私には大勢の人から「ぞうさん」と慕われる義兄がいて、それは「知三」という名前に由来している。

知三さんは私より一歳上で、若いころは一緒に仕事をする機会が多く、私たちはよく「ぞうさん、くまさん」と、漫才コンビのように呼ばれた。

知三さんは学生時代、アメリカの大学で哲学を学び、その後はさまざまな場面で通訳を務めるほど英語に精通し、頭脳明晰だった。ギター演奏や絵を描くことなど多彩な趣味を持ち、文筆にも人並み優れた才能を発揮した。

何よりも穏やかな性格で、人に優しく、人との縁を大切にした。下戸だけれども、気を配って宴席を盛り上げるなど、お酒も宴も大好きな私とは楽しみ方を異にしていた。だから私としては、コンビのように呼ばれることがとても気恥ずかしく、申し訳なくさえ思っていた。そして、目標に向かって努力を惜しまない姿勢に、私は後々、大きく影響を受けた。

私たちが若いころ、知三さんは夫婦で天理教のアメリカ伝道庁に赴任し、その後は天理教教会本部で海外布教や人材育成などの要職に就いた。一方、私は夫婦でブラジルへ渡り、日本語学校の教師を務め、その後は東京で教会長となった。私たちは共に、親から天理教の信仰を受け継ぎ、人だすけの人生を歩んできた。

私は知三さんに会うたびに、その時々に抱えている悩みや、人への寄り添いの様子などを聞いてもらった。知三さんはその都度、真剣に耳を傾け、私のそうした日常を応援してくれていた。その姿がいつも優しく温かくて、うれしかった。

遺されたメモ

知三さんは、数年前から病と向き合っていた。お見舞いに行くと、奥さんを横に、窓から見える景色を愛でていた。ひと口の食事と、寄り添う奥さんに感謝し、何に対しても「ありがたい」と笑顔が絶えなかった。

今年の梅雨を迎えたある日、「もう、よしえ(奥さん)に来生のプロポーズを済ませたんや。だから、あとは親神様に委ねるだけや」と言った。

そして7月1日午前11時過ぎ、車中にいる私の携帯に、妻から泣き声だけの電話があった。すべてを察して私も一人、涙をぬぐった。

その日、私は、ある病気を患っている方の家へ向かっていた。妻の心情を察し、家に戻ろうかとも思ったが、知三さんはきっと、この人だすけを応援してくれているに違いないと思い直し、唇を嚙みしめ目的地に向かった。

葬儀の日、喪主を務めた奥さんが、あいさつに立った。「主人が遺した走り書きのメモがあったので、それを読んで、あいさつに代えたいと存じます」と前置きし、その文を読んだ。

「もし生前、私の無神経な言動で傷つけた方があれば、一人ひとりに直接お会いし、素直に心からお詫びしたい。私の一生は、素晴らしい方々との出会いに満ちたものだった。(中略)多くの人々から頂いた真実に対して、一人ひとりに直接お会いして、感謝と正直な気持ちを伝えられたら、どんなにありがたく、うれしいことだろう……」

どこまでも人に優しく、人を思い、人を大切にした人生だったのだろうと、胸を打たれた。

その2カ月前に、私の娘夫婦に第2子「つむぎ」が誕生した。知三さんは「つむぎが生きる力をくれた」と言って、写真を眺めては喜んでくれた。

つむぎを抱くと、知三さんから命のバトンを受け継いだように感じる。優しく温かく人との関係を紡ぎ、皆から愛されたバトンだ。


白熊繁一(天理教中千住分教会長)
1957年生まれ