天理時報オンライン

信仰生活は窮屈では?- 身近で聞いた素朴な問いにWAKUさんがお答えします


イラスト/なんばなつこ

地元の同級生から、「私は何でもあまり深く考えず、思った通りに行動するけれど、信仰する人は、なかでも教えを説く人はなおさら、教えから外れたことはできないね。それって窮屈じゃない?」と尋ねられました。

まじめに頑張っている人を見て、大変そうだな、と感じることがありますね。スポーツ選手でも、競技を楽しむ面と、自分との戦いという、しんどい面があるように見えます。

熱心に信仰していても、「陽気ぐらしの天理教」と言いながら、日々窮屈な思いをしているようでは、矛盾していることになるかもしれません。

天理に適った「陽気ぐらし」という大きな目標に向かう道を、自分では真っすぐに進んでいると思っていても、気づかないうちに道から外れそうになって軌道修正する、ということがあります。また、ついうっかり自分中心の心を使ってしまっては、反省して改めるということも、日々繰り返すところです。

しかし、自分から求めていく限り、信仰生活は窮屈なものではありません。たとえ落ち込むようなことがあっても、そこで立ち止まらず、明るく立ち上がって、教えを定規に前進していくのが、この道の信仰者でしょう。

信仰する者は、3歳の小児のように、欲のない、素直で無邪気な、親にすっかりもたれきった心でいるようにと教えられます。

昔の先人にも、今の先輩にも、素直に教えを実行し、どんななかにも喜びを見つけ、それを心から楽しんでいる……まさに純真で無邪気な方がおられます。

教祖は、「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで」とも教えられています。


西村和久(天理教一筋分教会長)