「なぜ祈るのか?」を考える – 視点
2024・9/11号を見る
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パナソニック創業者の松下幸之助氏は、神仏に熱心だったことで知られる。企業経営と宗教活動は一見、関係ないことのように思われるが、さまざまな日本企業が宗教的行為を取り入れているという。
一方、無神論の人たちが神仏参拝で疑問に思うことの一つに、「祈ったら得するのか?」「祈らなかったら損するのか?」があるだろう。
この点について、幸之助氏の著書『PHPのことば』(PHP研究所)には「特別にお祈りをしたからといって、とくにその人だけに恵みが多く与えられるわけでもなく、またお祈りをしないからといって、恵みが与えられないというわけではないのであります。このように考えるのは、人間の得手勝手な独断で、天地の恵みは、小さな人間の知恵を超えて、すべての人に平等に、さんさんとして降りそそいでいるのであります」と記される。
幸之助氏は「今日一日、素直であれますように」と祈り、そして「今日一日、素直であったかどうか」を反省したという。自身の「あり方」や「あるべき姿」を神仏に誓い続けるのが、“経営の神様”といわれた氏の「祈り」だった。本教とも縁の深かった幸之助氏が心がけたのは、自らを明るく前向きに保つことであり、その祈りは、ご利益信心ではなかったようだ。
翻って、お道ではなぜ祈るのか。毎日、朝夕に、月々に。それは、かしもの・かりものの教えに目覚めた信仰者が、親神様のご守護に心から感謝を込めて御礼申し上げるということが第一義であろう。
大恩を忘れずに感謝する。そのうえで、そこから湧き上がってくる信仰心が何を欲するのかが問われる。報恩感謝という言葉で表されるように、大恩にどう報いるかを突き詰めるということだろう。
つとめという祈りの中で、私たちは心のさんげ、身のさんげ、理のさんげを行い、その決意をもって日々を通る。それは親心へ近づく歩みにおける大切な仕切りの時間であろう。それが自らの心を澄ます努力へとつながり、また他者への献身、すなわち、おたすけへとつながり、陽気ぐらしの輪を広げる起点になっていく。
筆者の祖父は晩年、こう言った。「お道はな、毎日、世界たすけを祈り、一れつの人々の心の澄みきりを真剣に願うおつとめを勤める。それも、世界中の教会で。世界に宗教多し、といえども、そんな宗教は天理教だけや」。その誇らしげな祖父の言葉が、いまも瑞々しく耳に響く。
(永尾)