古からの風景に思いを馳せて 神意と人間思案のはざまで – 逸話の季
2024・10/23号を見る
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10月も半ばに差しかかりました。もうすぐ、秋季大祭です。
いまから40年ほど前のこの月に、北海道から自転車でおぢば帰りをしました。このときは自転車での帰参が目的ではなくて、ある人の自転車をおぢばへ届ける旅でした。そのため大部分は船上で過ごしましたが、それでも福井県敦賀からおぢばへ向かう道中で見上げた夕日の美しさは目に焼きついています。このとき船中で頬張った、古新聞に包んだ持参のおにぎりの味とともに、ずっと忘れられない思い出の一つです。
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『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、次のような立教の日のエピソードが載せられています。
天保九年十月の立教の時、当時十四才と八才であったおまさ、おきみ(後のおはる)の二人は、後日この時の様子を述懐して、「私達は、お言葉のある毎に、余りの怖さに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえていました」と述べている。
「二 お言葉のある毎に」
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立教の出来事は、当時の中山家の人々にとって、これまでの生活が一変する極めて大きな節目となりました。そしてこの日は、教祖が立教を境に「月日のやしろ」として、親神様の思召を世界に伝える立場になったことを信じるすべての人々にとって、人類の歴史の意味と未来のあり方を変える極めて重要な日になったのです。
とはいえ、立教の出来事の意味が、本当の意味で周囲の人々に理解されるまでには、かなりの時間を要します。また、神意と人間思案のはざまで、さまざまな葛藤を乗り越える必要がありました。
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現在では毎年、この日に多くの人々が神苑に集い、教祖が「月日のやしろ」となられた時刻に合わせて立教の喜びを共有します。秋空のもと「みかぐらうた」を唱和していると、立教以来の先人のご苦心と教祖の親心をあらためて感じます。そして、若き日のおぢば帰りで見上げたあの空の色を、いつも思い出します。
周囲の景観は多少変わりましたが、空の色や秋の空気は変わりません。立教の日に人々が定めた心が変わらないように、私もあの日の感動を忘れずに、残りの人生を歩みたいものです。
■ 文=岡田正彦
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