「ぢば定め」から150年 – 視点
2025・2/5号を見る
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明治8年6月29日(陰暦5月26日)の昼ごろ、教祖は「かんろだい」の「ぢば」を初めて明かされた。今年は、その「ぢば定め」から150年目に当たる。
当時の状況を少し振り返ってみると、教祖は、すでに明治6年に、飯降伊蔵に命じて、模型の「かんろだい」(高さ約6尺、直径約3寸の六角の棒の上下に、直径1尺2寸、厚さ約3寸の六角の板の付いたもの)を作らせられ、それを倉に納めたままにしておかれている。
「かんろだい」の模型を作られたのであったら、すぐに「ぢば」を定めてくださったらよいのに、教祖はそうなされず、明治8年まで待たれたのである。
その鍵は、明治6年と8年の間の年である、明治7年にあるのではないか。
明治7年、教祖は、
みへるのもなにの事やらしれまいな 高い山からをふくハんのみち
おふでさき五号57、58
このみちをつけよふとてにしこしらへ そばなるものハなにもしらすに
と、あらかじめ筆に付けられたうえで、「高山布教」を開始された。
具体的には「大和神社のふし」と「山村御殿のふし」が、それに当たる。
そして、「山村御殿のふし」の直後、教祖は赤衣を召され、一緒にご尽力くださった4人の先人に対して、身上たすけのための「さづけ」の理を初めてお渡しになった。
教祖に代わって、「おたすけ」をすることを許されるのが、「さづけ」の理である。このことは、教祖の代わりをすることを許されるところまで、人々が成人したことを意味する。
『稿本天理教教祖伝』に「子供の心も次第に成人して、ここに、親神は、かんろだいのぢば定めを急込まれた」(第六章「ぢば定め」)とあるが、「ぢば定め」はさまざまな「ふし」を経て、人々の信仰信念が固められた後に行われたといえよう。
年祭活動3年目の本年、「おぢば」への思慕を高めるとともに、150年前に思いを馳せ、「おさづけ」の取り次ぎに、「おたすけ」に、しっかりとつとめさせていただこう。
(山澤)