日本の四季 – 世相の奥
2025・2/26号を見る
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さいきん、京都のある花屋で意外な話を聞いた。このごろは歳時記にあう花が、あつらえにくくなっているという。
たとえば立春、あるいは晩夏らしい花をそろえろと、茶会の主催者から注文をもらう。しかし、その時節らしい花が、もう京都の近郊ではとれなくなってきた。おかげで、遠方の長野まで足をはこび、そちらで採取せざるをえなくなっている。地球の温暖化による季節の変化に、京都の花がおいつけなくなったということか。
それにしても、花摘みのために越境を余儀なくされるのはこまる。花の値段にも、そのためにかかった交通費は、加算される可能性がある。まあ、花もシャケやブリなみになったと考えればいいような気はするが。
以前、松尾芭蕉の俳句をインドのヒンディー語へ翻訳している人から、聞かされた。季語のあつかいには、ずいぶんなやまされてきたのだ、と。
「夏草や、兵どもが夢の跡」という句がある。この翻訳が、たいへんむずかしいらしい。インドは暑いから、たいていの地域で夏になれば草はみな枯れるという。それが常識になっている。そんなインド人に、どうやったら「夏草や」の味わいが、つたわるのか。以上のような難問で、以前から頭をかかえこんできたと、おっしゃる。
言われた当座は、外国へ俳句をつたえることのむずかしさだけに、心が反応した。だが、今はちがう。日本国内に範囲をかぎっても、似たような困難は浮上しうると考える。
蚊取り線香は、今でも夏の風物詩を構成するだろう。KINCHOのテレビ広告も、浴衣の人物や花火の遠景などととりあわせ、制作されてきた。俳句の世界でも、夏の季語として定着しているはずである。もちろん、蚊そのものも。
しかし、地球の温暖化は日本の夏を、きょくたんに暑くした。摂氏で35度をこえ、40度にせまらんとする。このごろは、連日そんな日がつづくことも多い。これには、蚊もへたばるのだろう。真夏に見かけることはへってきた。インドなみとは言わないが、夏は蚊取り線香のいらない季節になりだしている。
こういうことを、俳人たちはどううけとめているのだろう。これまでの歳時記をあらため、蚊取り線香を晩春の季語にくみかえるのだろうか。いちど、聞いてみたいものである。