陽気ぐらしへの道を通る人を育て導き丹精し続けて – 婦人会第107回総会 真柱様メッセージ(要旨)
2025・4/30号を見る
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婦人会は、どこまでも天理教の婦人会である。目指すところは親神様のお望みくださる陽気ぐらし世界の実現にあることは申すまでもない。この目的に向かって、親神様からお与えいただいた女性としての徳分を生かして歩みを進めることが、天理教婦人会の果たすべき役割と考えるのである。
陽気ぐらしの世界に到達するまでには、膨大な時間がかかる。「道は末代」と教えていただくが、何代も何代も代を重ねて前進や後退を繰り返しながら、少しずつ歩みを進めることによって近づいていくことができる。だから、この教えを私たちから次の代、また次の代へと、末代かけてつないでいかなければならない。
「おふでさき」で、「このさきハみちにたとへてはなしする どこの事ともさらにゆハんで」(一号46)とお教えいただくからだろうか。私たちは、天理教のこと、この教えのことを「道」という言葉で表す。婦人会が自らを「道の台」と称しているのも、その意味からである。
明治39年5月21日の「おさしづ」に、「さあ/\続いてあってこそ、道と言う。続かん事は道とは言わん。言えようまい」という一節がある。道は目的地まで通じているときに、道としての役割を果たすのである。目的地にたどり着くまでに道が消えてしまったなら、道は道としての役目を失ってしまうと言ってよいだろう。陽気ぐらしを目指すこの道は、陽気ぐらしに到達するまで続いていかなければならない。道中に厳しい上り下りの坂道や細くて通りにくい道があっても、何よりも続くということが大切である。道を通る人が切れてしまっては、陽気ぐらしへの道が閉ざされてしまう。この道が末代かけて続いていくためには、道を通る人を育て導き、丹精し続けることは、どうでも必要なことなのである。
手本を見せ繰り返して教える
人を育て導くということは、女性だけの役割ではなく、育てようとする人皆の役割である。しかし、子供を産み育てるということは、女性の大きな徳分の一つである。自分のお腹に子供を宿して、長い時間を共に過ごし、その子を産みおろして自らの乳を与えて育てていくことは、男性にはできない。
また、そうした役割を担っているからこそ、子供を育てるに当たって、母親ならでは、女性ならではの目線が生まれてくるように思う。すべての女性が子供を産み育てる経験をするわけではないだろうが、この役割を務めることができるように、親神様は最初から整えてくださっているのである。婦人会員の皆さんには、お与えいただいている徳分を十分に生かして、老若男女を問わず、これからの道を通る人の育成、丹精に努め励んでいただきたい。
「おさしづ」で、「育てば育つ、育てにゃ育たん」(明治24年3月23日)とお教えいただく。人を育てるためには、育てる側が育てようという意思を持って、その努力をしなければならない。人間がわが子を育てることを想像すれば分かるだろうが、子供は時が経てば勝手に育ってくるものではない。子供が育つには、育てるための行動をしなくてはならない。育てる側が育てようという気持ちを持って、教える順序を考えて必要なことを言葉にすることはもちろん、自らが手本を見せ、何度も何度も繰り返して教えることをしなくてはならない。
私たちは、赤ちゃんや小さな子供を育てるときには、自然とこうした行いをしているように思うが、大きくなるにつれて、いつの間にか「うるさく言わなくても分かるだろう」「口で言えば分かるだろう」などと、手間をかけることを惜しんでしまっているように思う。
私たち道を通る者は、自らの歩み方の手本を教祖のひながたに求める。人を育てる手本をひながたに求めたとき、教祖はわれわれの先人先輩方に対して、言葉で教えるだけでなく、ご自身の行いで示され、繰り返し繰り返し教え導くことをなされたことに思い至る。一度教えてそれで終わり、ということはなかったであろう。こうして通ればよいのだと、自ら手本を示してくだされたことであろう。間違いは、何らかの形で指摘してくださったことであろう。まさに、人を育て導く手本を、教祖ご自身が示してくださっているのである。このことを心に置いて、どこまでもひながたを頼りに、女性の徳分を生かして、これから先、道を通る人たちを育て、丹精していただきたい。
ひながたに親心を求めて
この道は、教祖がお付けくだされた道である。そして、教祖が真っ先に通って見せてくだされた道なのである。そして、その道を信じて、あるいは、なるほどと感じて通った先人がおられたから、いまに道が続いているのである。人間でもそうだが、親が自信を持って、誇りを持って通った姿を見てこそ、子供も同じ道を歩むのである。親が通らなければ、そこに自信や誇りを持っていなければ、なかなか子供は後に続いてくれないように思う。
教祖は「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』196「子供の成人」)と教えてくださった。育てよう、丹精しようという相手が思うようについてきてくれないときには、相手をどうこう言うのではない。まずは自分の通り方、教え方、導き方に、届かない点はなかっただろうかと謙虚に見つめ直し、改めるべきところは素直に改めることを心がけてもらいたい。そして何より、自分自身がこの道を通ることに自信と誇りを持っていただきたいのである。
明治22年10月9日の「おさしづ」に、「をやの道を通りながら、をやの道の理が分からん。古き道があるから新しい道がある。古き道はをや、新しい道は子という。さあ/\だん/\に新しい道を通ろうとするで、古き道が忘れる」とお示しいただく。お互い一生懸命に道を通っていても、現状のさまざまな問題に心を使い、将来の心配をするがあまり、教祖のお通りくだされた道を、ひながたに込めてくださった親心を、求めることを忘れてしまっていることはないだろうか。ひながたの道を知っていながら、ついうっかりと横に置いてしまっていることはないだろうか。教祖のお通りくだされたひながたの道があってこそ、いまの道があり、またこの先の道がある。これは、いつの時代でも、決して変わることがないのである。皆さんは、ひながたをたどるということ、ひながたに親心を求めるということを常に心に置いていただきたいのである。
にをいがけ・おたすけに励んで
さて、いよいよ教祖140年祭が近づいてきた。この三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときだと申し合わせて年祭活動に取り組んできたことは、ご承知のことと思う。その三年千日も、残り9カ月となった。この教えを信じる者として、なかでも婦人会員として、今日お話しした、後に続く人たちの育成、丹精に、そして何よりも、にをいがけ・おたすけに励んでいただきたい。にをいがけ・おたすけは、最も教祖がお喜びくださるご恩報じである。
明治30年12月23日の「おさしづ」に、「働けば働くだけ、めん/\心に誠さえあれば踏み損いは無い。これ諭したら分かるやろう。働いたら働いたゞけ、これから見えるのや」と仰せいただく。年祭に向かって一生懸命に働いた真実は、年祭が終わればなくなってしまうわけではない。楽しみの種蒔きとお受け取りくださって、将来必ず喜びの芽生えをお見せくださると信じる。
どうか悔いのない気持ちで年祭の日を迎えることができるよう、精いっぱい努めてくださることを心よりお願いしたい。