天理時報オンライン

親孝行って何? – わたしのクローバー


私の名前

私の名前は「孝」と書いて、「たか」と読む。出版社に勤めていた父が付けてくれた。

子供のころは、この名前が苦手だった。苦手というより嫌いだった。どうしてこんなお年寄りみたいな名前を付けたのだろう。なんでもっと女の子らしい、かわいい名前を選んでくれなかったのだろう。時々そんなことを考えていた。

新学年になると、いつも憂鬱だった。たいていの先生は呼び間違えるし、やんちゃな男子たちは冷やかす。毎年繰り返されるお決まりの出来事だ。お花のような可憐な名前に憧れ、ノートの片隅に自分で考えた名前を書いてみたりした。

大学生になったとき、新しくできた友達が「かっこいい名前だね」と言った。そうか、かっこいいのか。ありふれていない自分の名前が、ちょっと特別なものに思えた。

仕事柄のせいか、父には独特なこだわりがあって、三姉妹みんな漢字一文字、読み仮名二文字の名前だ。かわいい娘の名前を、誰からも縮めて呼ばれたくないという思いから、そういう名前を付けたと、父は誇らしげに話してくれた。

大人になって、自分の名前に子供時代とは違う感情を抱くようになった。自分の名前を人に説明するとき、たいてい「親孝行の孝です」と言ってしまう。父と母がそう言っていたのを聞いて育ったせいなのだが、もっとほかの言い回しがないものかと探したこともあった。しかし、万人に通用するのは、やはり「親孝行の孝」だった。

「親孝行の孝です」と言った後、いつも少し恥ずかしい。恥ずかしいというか、おこがましいというか、心の中にいろんな感情が湧いてくる。言われた相手は、そんなこと思っちゃいないのだろうが、“自分は親孝行しています”と宣言しているようで、なんだかとても気恥ずかしくなるのだ。そしていつも最後に、「私って親孝行できているのかなあ」と同じ思いにたどり着く。

親の幸せ

イラストレーション:うえかな

母の日にはカーネーション、父の日には何かしらのプレゼントを、私は贈っていない。若いころは無邪気にそんな贈り物をしていたが、いつの間にか、しなくなった。

贈り物がしたくないわけではない。ただ、そうすべきでしょ、と言わんばかりの世間の流れに乗っかり、孝行をしているような気になってしまうのが嫌なのだ。

親が本当に求めているものは何だろう。両親から、ああしてほしい、こうしてほしいと言われた記憶はない。ただ、母は昔から「あなたたちのお母さんで、本当に幸せ」とよく言っていた。父もそばで黙って聞いていたから、同じ思いなのだろう。3人の娘がそれぞれ結婚し、子育てに奮闘している今は、「あなたたちがしっかりお母さんをしていて、私は本当に幸せ」と、内容が若干変わってきた。私たちはたくさん病気もしたし、事故にも遭ったし、さんざん心配をかけてきたけれど、両親はそんな記憶はどこかに置いてきたようだ。

私も3人息子の親になった。長男と次男は大学生、三男はまだ中学生だ。息子たちに“親孝行して”と、言ったことも願ったこともない。ただ、息子たちは本当に親孝行だなと、いつも思う。兄弟仲良く、自分の進むべき道を真っすぐに見据え、それぞれの場所で一生懸命に頑張っている。そんな姿を見て、私は幸せな母親だとつくづく思うのだ。

親バカだろうが、なんだろうが、子供たちが毎日を生き生きと楽しんで生きている。それだけで、私はとても幸せなのだ。

親孝行の定義は分からない。人それぞれの価値観で決まるものかもしれない。

私は、親に幸せと思ってもらえる毎日を送っていたい。それが、私の親孝行のやり方なのかもしれない。


濱孝(天理教信道分教会長夫人)
1972年生まれ