月に池を視た男 – 日本史コンシェルジュ
俳句や和歌で「月」と言えば、それは秋の月を指します。そう、「月」は秋の季語。夜空が澄みわたる秋は、月がことさらに明るく美しく輝くからです。その月を天体として観測し、日本人で初めて観測図を描いた人物が、江戸時代中期の天文学者・麻田剛立です。
幼少期から太陽と影の関係や月の動きに興味を抱いた剛立は、独学で天文学を深め、ついに宝暦13(1763)年9月1日、当時の暦にはなかった「日食」を予測し、見事に的中させます。このとき彼は、故郷の杵築藩(現在の大分県杵築市)に仕える医師でしたが、のちに天文学に専念するため大坂へ出て、町医者として生計を立てながら天文学の塾を開き、生き生きと活動を始めました。
当時の研究者は閉鎖的で、弟子にさえ研究成果を明かさない者も多いなか、剛立は各地の研究者と交流し、惜しげもなく知識を分かち合ったので、才能あふれる者たちが自然と剛立のもとに集まりました。当時、天文学を究めるには「観測機器」「数学」そして西洋の知識を吸収するための「語学」が必要でしたが、この三つの分野で、剛立の弟子や孫弟子から天才が育ち、最先端を行く科学者集団が形成されたのです。あの伊能忠敬も、剛立の孫弟子の一人です。
剛立は44歳のとき、当時の日本に2台しかなかった英国製の反射望遠鏡を入手し、月や天体の観測データを集めています。望遠鏡は大変高価でしたが、金銭的に余裕のない剛立のために、弟子や友人が奔走してくれたのです。剛立は観測結果をもとに、日本初の月面観測図を作成し、月を「重い疱瘡の病にかかった人のようだ」と表現し、クレーターを「池」と書き記しました。
実は剛立は、天文学や医学(特に解剖学)の分野で目覚ましい業績を残していますが、本人が記録したものはほとんど残っていません。彼の業績は、弟子や友人の著述、さらに彼らと剛立が交わした手紙から明らかになっており、その素晴らしさを世界が認めています。寛政11(1799)年、剛立は65年の人生に幕を閉じましたが、それから約180年後の1976年、国際天文学連合は数ある月のクレーターの一つを「アサダ」と名づけました。月のクレーターにはコペルニクスやアインシュタインなどの名前もあり、彼らと並ぶ世界的な科学者として、麻田剛立の名は月に刻まれたのです。