東独と北朝鮮 – 世相の奥
2025・11/26号を見る
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20世紀のおわりごろから十数年ほど、何度かベトナムへでかけた。そのおりに見聞きして、考えたことを書きつける。
ホーチミン市だったか、ハノイ市だったかは、よくおぼえていない。そのどちらかで、私は街の盆栽屋をひやかした。店の看板には”ボンサイ”とある。まちがいなく、日本的な盆栽を売っている店であった。
店主とは、どちらもへたくそな英語で語りあう。いささか、面くらったのだが、彼はたいへんな教養人であった。とりわけ、20世紀の西洋芸術に、くわしい。聞けば、若いころにベトナムの政府留学生として旧東ドイツへ、おくりこまれたのだという。ベルリンでは、学位もとった。テーマはブレヒトの舞台芸術だったらしい。
だが、旧東ドイツは消滅した。ベトナムじたいも、かたくなな社会主義経済からは、距離をとっている。彼のブレヒト研究をいかす途は、今のベトナムにない。それで盆栽をあきなっているとのことであった。
傷心のエリートを日本の盆栽が、なにほどかすくっている。そううけとめ、ややあたたかい気持ちになった。
その何年か後、私はホーチミンで開催された日本研究の集会に、顔をだしている。あつまった大学人のなかに、ベトナムの老婦人がいた。日本語の流暢な人である。しばしば、通訳の手だすけもしてくれた。
しかし、彼女が若かったころのベトナムに、日本語の教育機関はない。大学でも、日本語の授業は開講されていなかったはずである。いったい、どこで日本語をまなんだのか。
いぶかしく思った私は、そうたずねた。この問いかけに、彼女はこたえてくれたのである。自分が留学したのは北朝鮮であった。日本語は、ピョンヤンで修得している、と。
北朝鮮……。ひょっとしたら、拉致された日本人からですか。たとえば、……。そうたたみかけた私を、彼女は軽くいなしている。その質問には、こたえることができない、と。
旧東ドイツや北朝鮮へ、若い学徒が政府から派遣される。そんな時代に青春をおくった人の人生航路が、大きくわかれていく。かたほうは、ブレヒトからはなれ盆栽に生きる。もういっぽうは、日本語の能力でアカデミアにとどまった。
北朝鮮留学のほうがよかったと言いたいわけではないが。







