おたすけさえして居れば結構です 上原さと(下) – おたすけに生きた女性
佐助は東京へ、さとは笠岡へ
明治18年7月24日、洪水で出発を延ばしていた上原佐助は、赤衣を捧持し、着の身着のままで東京へ出発しました。しかし、東京に着くなり、腹部に大きな腫れ物ができて、碇清水で勤めることもできませんでした。
一方、この身上からにをいが掛かり始め、おたすけに忙しくなりました。これによって、さとへの仕送りの約束は果たされないまま、さとの暮らしはいよいよ窮迫していきました。それでもさとは、笠岡の義父母を大阪へ呼び戻し、一家そろって暮らせる日を目指して歩み続けたのです。
このころ笠岡へ送った手紙には、病気の姑・八重への気づかいと、さとの近況や心境が綴られています。神様のおかげで安産し、お乳も一人分お与えいただき、誠にありがたいとする一方で、当年のような難儀をしたことはない、お金を借りるにも抵当に入れる着物もない、産婆へのお礼も子供の預かり賃も払えていない、商いをしようにも元金がない、誰に話をするにも人もなく、木から落ちた猿も同様、などと記しています。当時のさとの苦しい心中は察するに余りあります。
この様子を見かねて、さとの実家から長男・鹿造を預かりに来ました。難渋な境遇に置かれても、さとの神一条の信心と親への孝心は揺らぐことなく、八重の身上平癒をお願いするため、芦津分教会(当時)の本田寄所へ何度も通いました。
さとは、古着類を売り、仕立て物をして生計を立てました。明治18年の暮れには、笠岡から義父母を大阪へ呼び戻して暮らせる目処も立ってきました。しかし八重の身上は重く、舅・佐吉は大阪への復帰を断念しました。明治19年6月14日、さとは笠岡へ移りました。その翌日、「おさとに手を握ってもらえば心残りはない」とまで話していた八重が、さとの介抱を受けながら出直しました。八重にとってさとは、どのような存在であったかがうかがえます。
笠岡へ帰ったさとは小間物屋を開きました。ある日、以前から親交のある神保マンが訪ねてきました。マンの夫・庄兵衛が腹痛に悩んでいると聞き、御供を手渡すと、鮮やかにご守護いただきました。庄兵衛はお礼に来て、佐吉とさとから神様のお話を聞きました。さらに感動した庄兵衛は、たすかった話を近隣の人々に伝えました。これをきっかけに、おたすけを願う人が次々と訪れ、お話を取り次ぐのに多忙となりました。こうしてさとは、おたすけに専念していくのです。
御供と「添え願い」でおたすけ
さとは、おさづけの理を戴くまでは、御供と「添え願い」でおたすけをしました。添え願いとは、おたすけを願う人に、「神様の前でしっかりお願いしてください。私も添え願いをさしてもらいます」と諭したうえで、本人に神様に願ってもらい、さとがそれに添えてお願いづとめをするというものです。この添え願いのおたすけで、多くの講社ができました。
明治20年、教祖が現身をおかくしになられたとの知らせを聞き、佐吉とさとは非常に落胆しました。この年、さとは身上を患い、2度にわたって「おさしづ」を伺っています。
明治20年 上原さと三十七才身上願
「……めん/\も神の子供、世界中は同じかりもの。……前生のいんねん、世界で心皆現われる。世界の鏡に映してある。難儀の中の難儀不自由の理を見て、一つのたんのの理を治めてくれ」
世界の鏡に前生のいんねんがすべて心通りに映してある、とかりものの理をお諭しになり、難儀の中の難儀不自由の理を見て、たんのうの理を心に治めるよう促されています。
明治20年 上原佐助妻さと咳出るに付願
「……前々成ると成らん事情、頼もし話言う。言う事、直ぐ聞き、何かの処たんのう。……だん/\処、心にたんのうして自由自在。……心を治めるなら、身上に治まるであろ」
思うように成ること、成らないことがある中での心の治め方を諭されています。神の話を聞いて、どのような中もたんのうの心を治めるなら、自由自在の守護をする、身上も治まるであろう、と諭されているように思います。
さとは後年、「おさしづ」のお言葉などを扇子に書き、読み上げておたすけをしていたと伝えられています。おたすけにおいては、神様のお言葉を心に治めるところに、たすかる鍵があるとの信念を持っていたのでしょう。
会長としての理の仕込み
明治21年の秋、さとをはじめ十数人の信者がおぢばへ帰り、おさづけの理を拝戴しました。こうして笠岡の道は伸展し、明治22年には、初代真柱様から「おさとはん、あんたの所も教会をおいたらどうや」とお言葉を頂くのですが、さとは「おたすけさえして居れば結構です。教会を作ることなどは考えても居りません」とお答えしたといいます。
しかしながら、笠岡の信者からも教会設置を望む声が高まり、明治24年、笠岡支教会を設置。さとは初代会長に就任しました。さとは、情にこまやかな一方で、理の仕込みはきっぱりとしていたといいます。
ある病人が人力車に乗ってきて、車屋に待つように話していました。さとは「あんたは、ここへ来ておかげを頂かれるつもりですか、それとも頂かれないつもりですか」と尋ねました。その人が「おかげを頂きたいんです」と答えると、「そんなら歩いて帰らはったほうがいいでっしゃろ。車屋はんを待たせるのは、病気のまま帰ることになりまっしゃろ」と、衰弱で話すのもやっとの人に言ったそうです。その人は得心して車屋を帰し、ぜひともおかげを頂きたいと思い、おさづけの取り次ぎを受け、お話を聞かせてもらいました。すると、見る間に血色が良くなり、楽に歩いて帰るという不思議なご守護を頂きました。さとは「これくらいの信念で神様にお祈りせんとあかんで、な」と語っています。
また、日常の心がけとして、「気短かではあかん。長い気になりや。長い気が、長生きするのやで。女三人寄ったら姦しというが、女ばかり集まったら人の不足を言うもんや。そんな時、いや/\あの人は、こんな真似のできん、良いところもあると、切らずにつながんならん。息一つの理で生かしも殺しもできる。息一つで、その人を生かすようせんならんで」と仕込みました。
長い心を持つこと、人の欠点を見て切ってしまわず、良いところを見てつなぐこと、言葉づかいを大切にし、人を生かす言葉を使うこと。これらはいずれも、互いにたすけ合って生きるうえでの大切なかどめであると思います。それを自ら実践し、人々にも心がけるように教え導いたのです。
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会長を退いた後、さとは決して表に立とうとせず、芦津大教会の御用をつとめつつ、その合間に、尋ねてくる人に満足を与えようと心を配ったといいます。そうして人々の心を温め続け、おたすけ一筋に生きたのです。
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)