奇跡と思える奇跡 – 成人へのビジョン7
私たちは、この信仰の先に何を見るのだろう? 信仰が報われたと感じるのは何によってだろう? 「ご守護」だろうか。「奇跡」だろうか。
2007年、がんのため24歳で生涯を閉じた女性の最後の1カ月間を収めたドキュメンタリー番組『余命1ヶ月の花嫁』が放映されました。テレビをつけると、入院中のその女性が車いすに座り、外へ出る場面でした。女性は青く澄みきった空を眺め、しばらくして同伴したスタッフに言いました。
「ねえ、知ってた? 空って、青いんだよ」
ハッとしました。「僕は空の青さを知らない」。思わず心の中で答えます。僕の眼には映らない空の神秘が、彼女の眼に映り込んでいる、そう思ったからです。
アインシュタインはこう言っています。「人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、奇跡など何も起こらないと思って生きること。もうひとつは、あらゆるものが奇跡だと思って生きること」。きっと彼女は後者を生きたのです。
ところで、キリスト教には「奇跡」についての厳格な定義があります。自然法則で説明がつかないことはもちろん、教会法には奇跡の真偽を判定する厳格な手続きが定められており、滅多なことでは奇跡と認められないそうです(これには相応の理由があります)。
振り返って、私たちにとっての奇跡、ご守護とは何でしょうか? それは何かの結果、もたらされるものでしょうか?――そうではないはずです。この世界に、そして体に、十全の守護は、すでに常に与えられています。
こうは言えないでしょうか。お道の信仰は、その先に奇跡を見るのではなく、日常が奇跡だと気づくようになる歩みである、と。そのことを知性によってではなく、心の眼で感じ取っていく道。ご守護や奇跡は始めから与えられているのです。ともすれば、それは現実の悩み苦しみから逃げていると思われるかもしれません。しかし、そこから見える信仰の景色は自ずと自身と周囲の心を明るく照らします。それは現実を動かす信仰者の確かなリアリティーです。
あらゆることが奇跡と感じられる、それこそが奇跡ではないか――。かしもの・かりものの理に生きるとは、そういうことだろうと、僕は背伸びをするのです。
可児義孝