感動を生き続ける – 成人へのビジョン8
社会学者・見田宗介氏が4月に亡くなりました。弟子の大澤真幸氏が、初めて見田氏のゼミを受けたのは18歳のときでした。
「私はそのとき、心底から納得した。生きることと学問することとはひとつになりうる、と。(中略)私は今でも、あのときの感動の中で仕事をしている」(『朝日新聞』2022年4月14日朝刊) ――何か美しいものにふれた気がしました。
人間は「感情の動物」だといいます。私たちは、理屈よりも感情に動かされます。ですが通常、感情は持続しません。喜びも悲しみも永遠には続かない。
一方、記憶は感情とは別に保存されるようです。記憶の種類にもよりますが、反復し定着したものは滅多に失われません。たとえば僕は、小学校で習った九九をいまでも覚えています。ただ、九九は私の感情を刺激しません。私を行動へと突き動かすことはない。それは必要に応じて引き出されるデータのようなものです。
お道の信仰には「心定め」があります。心を定める。神様と約束する。内容は人それぞれですが、そこには必ず契機があったはずです。本人にとって大切なきっかけが。
しかし時が経てば、そのときの心の震えや感動は薄れがちです。感情は持続しない。約束は覚えていても、そのときの心境が、いま・ここに現れてこない。こうなると心定めは、ややもすればノルマや決まりに近いものになってしまいます。
大澤氏は、いまも感動を生きています。記憶が無味乾燥な情報とならず、いまも現実に働きかけている。では、どうすればそれが可能になるのでしょうか。
私の答えは「対話」です。ご存命のおやさまとの対話。「地上の月日」たるおやさまが存命でいらっしゃる。それは私たちに交流(対話)の場が開かれているということでしょう。同時に、おやさまからお教えいただいたおつとめも、直接お書きくださった原典の拝読も、私たちが心を込めてなせば、それはすべて対話に成り得ます。そのとき感じるおやさまの温もりが、私たちの信仰を生きたものにしてくださる。そう思うのです。
「私は今でも、あのときの感動の中で仕事をしている」。信仰の世界こそ、そうありたいと願います。
可児義孝