傷から新芽が吹く – 道を楽しむ4
柿の季節になると、語りたくなる話がある。教会の裏庭にある一本の柿の木。幼いころは私の身の丈ほどだったが、いまや2階の屋根に届くほどの大木となった。東北地方にしては珍しい甘柿なのに、悲しいかな、多くの実は手が届かぬ高さに実っている。なんとか低い位置に枝が出てこないものかと、秋が来るたびに夢のような願いを口にしていた。
ある日、巡教先の教会で果樹園を営む信者さんとお会いした。半分冗談、半分は本気で、柿の件を相談してみた。すると、「ああ、できるよ!」と、いとも簡単におっしゃった。
芽が出てほしい部分の少し上に傷をつけると、その下方から芽が出てくるという。話を聞いて教会へ戻るや、教えられた通りノコギリで幹の数カ所に傷を入れてみた。正直なところ半信半疑だったが、数カ月後、驚くことに幾つも芽が吹いているではないか。なぜ、こんなことが起きるのか。
通常、樹木の栄養素を運ぶ樹液は根元から枝先へ上っていくが、それが傷によって寸断されると、樹液の勢いは傷の手前に溜まり、脇から芽が出るという仕組みだ。これは「芽傷」と呼ばれ、業界では常識らしいが、私にとっては実に衝撃的な話だった。
しかも芽傷には付けるべき旬があり、傷によって枯れることもあるそうで、やっていいのは丈夫な木に限られる。その話を聞いて、感動のあまり胸が熱くなった。
樹木からすれば芽傷という痛手によって、通常では吹かない芽が吹いてくる。私たちも神様から折々に身上・事情といった痛手たる節を頂くが、節によって、通常では成し得ない成人もさせていただける。また、芽傷に然るべき旬があるように、私たちから見れば「なぜ今?」と思うような節も、神様から見れば然るべき旬なのであろう。
神様は、乗り越えられない節は与えられないと聞く。傷によって枯れる柿の木に傷を付けないのと同様に、与えられた節をしっかり受けとめられる者にこそ、新たな芽を出すチャンスとしての節を下さるのだ。
この秋も柿を味わいながら、絶妙な天の理の有り難さを誰かに伝えたくなった。
中田祥浩 花巻分教会長