第31話 自分を生きている – ふたり
前話のあらすじ
第30話 誰のものでもない命
新太に取り憑いた病気が、大人たちの日常を色も音もないものにしていた。カンは、病院で人の命について考えていた。
手術は成功した。いまのところ合併症と呼ばれる厄介な病気も起こっていない。このまま大きくなれば、心臓の壁に開いた穴は塞がって、新太はまた普通の子どもと同じように走ったり転んだりできるようになるだろう。
早朝、カンが農場を訪れたとき、保苅青年は畑でブロッコリーを収穫していた。ナイフで生え際から切り取られた野菜には朝露がついている。収穫した作物を入れる空のコンテナをひっくり返し、二人は並んで腰を下ろした。
「中学生のころから、なぜ自分が生きているのかわからなかった」。保苅青年は畑のほうへ目をやったまま、ひとりごとめいた口調で話しはじめた。「生きる意味ってなんだろう。どうして生きなければならないんだろう。理由もないのに生きているのは無駄じゃないか」
しばらく言葉が途切れた。畑の向こうはクヌギやコナラの林になっている。いまごろはカブトムシやクワガタムシが樹液を吸っているだろう。ドングリが実るころ、新太は元気になっているだろうか。
「別に死にたかったわけじゃない。ただ生きることには理由がないし、死ぬことにもやっぱり理由はない。生きているのも死んでいるのも同じだ。だったら死んでいるほうが、人にも自分にも迷惑をかけなくていい。そんなことを考えながら、この街にやって来た。車を停めて荒れた海を眺めていたとき、急にあたりが騒がしくなった。犬が吠え、カモメが騒ぎ立てている。車から外に出てみると、海で子どもが溺れていた」
カンは何も言わずに微笑んだ。保苅青年も笑いを含んだ声でつづけた。
「気がついたときには、死のうと思っていた自分が、溺れている子どもを助けようとしていた。身体が頭を裏切って、後先のことも考えず海に飛び込んでいた。いまから振り返ると、あれがきっかけだった気がする。それまでは頭のなかでしか生きていなかった。小学生のきみを助けたとき、はじめて自分を生きていると思った」
雑木林の木々が色づくころには、虫たちは姿を消す。最初の北風が吹きはじめると、葉は茶色くなって地面に落ちる。降り積もった葉が、つぎの年のカブトムシやクワガタムシの幼虫を育てていく。
「人は意のままに死んだり生きたりはできない。新太のことがあって、それを痛切に感じた。いつ、どのような死に方をするかわからない。けれど最後は、ありがとうと言えそうな気がする。見送るときも、見送られるときも。人が生きていることは、ありがとうなんだな」
彼はゆっくりと振り向いた。
「いまだからたずねるけど、あのとき、きみはわざと海に落ちたんじゃないのか?」
作/片山恭一 画/リン