「諭達」に見る教祖のお言葉 – 視点
「諭達第四号」では、「ひながた」の道を通ることが、教祖が仰せになった三つのお言葉をもとに示されている。
教祖は、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」とのお言葉のままに、貧に落ち切るところから、陽気ぐらしの道を付けかけられた。
欲と高慢を忘れ、心澄み切るところに、真実の喜びがある。「かりもの」の有難さが感じられる、陽気ぐらしの根底を築かれたのである。「水を飲めば水の味がする」とは、まさにこの境地を示すお言葉で、「ひながた」前半を象徴するお言葉であろう。
このように、教祖のおっしゃることやなさることは、人間社会の常識や社会とはかけはなれたものであった。だからこそ、各方面から種々な反対攻撃を受けることになった。
しかし教祖は、どんなに警察や監獄に連れていかれても、どのような事態に遭遇しても、「ふしから芽が出る」とおっしゃり、勇んで明るくお通りになられた。
親神様は決して悪いようにはなさらない。成ってきた姿の中に、親神様の思召を悟り、勇躍するところに教えの真価がある。そこから必ず芽が吹くと教えられたのである。
そして「人救けたら我が身救かる」と、求めるのではなく与える心になること、人をたすけさせていただく中にこそ人間本来の喜びがある、陽気ぐらしの真実の生き方があると、教えられたのである。
教祖の道すがらは、貧のどん底や監獄への御苦労など、一見すると大変な道の連続である。
しかし、見落としてならないことは、その奥に流れるお心である。どんなならん中でも、親神様の思召を求めて、たすけ一条に通られた精神、どんな中も心倒さず、明るく勇んで通られたお心。この誠真実の通り方こそ「ひながた」であり、そのように通ってくだされたところに「ひながたの親」たる所以があると思う。
「諭達」に示された教祖のお言葉を反芻し、溢れんばかりの親心を求めて日々を通らせていただきたい。
(山澤)